西福寺

福 母
仏法寺跡
能満寺跡
神宮寺
福母八幡
大町八幡
「大町町」

佐賀県大町町(福母)の地域情報
大町町商工会(LINK)
(2)角川日本地名辞典によると、
(中世)天正のころ竜造寺に属していた大町不動寺出羽守、福母城主
鶴崎弥藤次などが居たと伝える。
福母城山跡:
永禄年間、武雄の地頭、後藤貴明の代官、
鶴崎弥藤次が住んでいた所。竜造寺隆信が須古城を攻めた時、鶴崎は平井経治を味方した為隆信より福母を追われた。
■能満寺跡:
竜造寺隆信が須古城征伐の時、伏兵がこの寺より出た」という事で焼き払われた。
仏法寺跡:
900年ごろは、大伽藍があったらしい。墓碑が多く立ち並び樹木が生い茂り清水流れる聖地であった。
■神宮寺:
延暦15年(796)西海道(現九州)を厳しく警戒する為、桓武天皇勅願寺として小城郡牛ノ尾に建てられ、建久2年(1191)に福母八幡宮の座司としてここに移された。
■西福寺:
当初は、下潟の民家にまじって、三間四方の小さな庵であったがが、華翁功英が、鍋島山城守直紹の許しを受け、この地に建立した。{開山元禄14年(1701)} 
宗派:曹洞宗  本尊は、釈迦、観世音菩薩。
■報恩寺:
建長元年(1249)神子栄尊が建立。山号は岩松山という。栄尊禅師が岩松氏の恩に報いる為に建てたものと報恩寺文書に書かれている。
この神子栄尊は、久留米市大善寺の朝日寺を創設している。この朝日寺の近くに将士軍談に鶴崎の先祖と言われる荊津(おどろつ)氏が鎌倉ー室町時代に住んでいたという記載あり。 
{大町町と久留米市大善寺の鶴崎氏が直接関係あるか不明ですが。}
大町町

(5) 武雄市史 の人物編の後藤氏の記載の中で、
天正元年(1573)正月元旦後藤貴明(武雄・塚崎城主)の兵、再び志久村から多久の辺境をうかがった。同年秋九月貴明は女山(現・船山)の鶴崎源太左衛門と示し合わせ多久を侵し、龍造寺長信の梶峰城を囲んだ。しかし、これを落とす事ができず、十月鶴崎の守城山下の塁(山下城)に帰陣した。
 → 隣町多久の山下に、同じ武雄後藤氏と通じる同姓の鶴崎氏がいた。

(3)小学館・九州の城(探訪ブックス)によると
福母城;城主
鶴崎氏、永禄ごろ後藤氏に属し、竜造寺氏により攻略。

明治22年に大町村と福母村が合併して大町村となる。明治43年大谷口炭坑が閉鉱され、その後経営が移り、昭和4年に杵島炭鉱株式会社が設立され、各地から労働者が集まり、昭和16年には人口2万4千人の最盛期を迎える。昭和11年に町政が施行され、大町村から大町町になる。昭和44年に杵島炭鉱閉山、これより急激に人口が流出し、過疎の町と化した。閉山の対策として積極的に工場誘致を行い、佐賀鉄工所や住友系の工場を含む11企業が進出し、オイルショックを乗り越え、大町町の基幹産業として貢献している。60年代に入り、商店街のカラー塗装、長崎街道かごかき競争等町興しの事業が住民と行政が一体となり取り組み始めた。しかし、人口減少はゆるやかではあるがまだ続いている。高齢化が進み、一人暮らしのお年寄りも増えている。

大町荘
杵島郡大町町に存在した宇佐八幡宮領の荘園。荘域は、中島・下大町の一部を除き、北は鬼ノ鼻山からその南麓、南は六角川を境界とする。長保5年(1003)年8月19日付、八幡大菩薩宇佐宮司解(平安遣文九)に筑前国嘉麻郡綱別・同穂浪椿・肥前国大楊・赤自と共に五ヶ所の宇佐宮領として封戸(ふこ)の荘園化したものであると伝えている。「八幡宇佐宮御領大鏡」(到津大書/大分県史料24)によれば立券荘号は寛弘3年(1006)で78町8反とあり、この定田数は正応5年(1292)の河上宮造営用途支配惣田数注文の記載と一致する。
以後、伝存史料からは消えるが、荘域内には、佐賀県大和町川上の水上万寿寺を開基した神子栄尊が勧請開山となった報恩寺がある。                  (出典:佐賀県大百科辞典/佐賀新聞社)
石炭産業と杵島炭鉱盛衰

城山

杵島炭鉱に興味がある方はリンクして見て下さい。
インターネット大町(LINK )

福母城跡

福母城跡の位置(航空写真)

大町町福母地区の空撮(YouTubeリンク ) 

(4)「九州の苗字を歩く 佐賀・長崎編」(梓書院)の書籍によると。
福母にある戦国期の福母城主は
鶴崎弥藤次という。のち龍造寺氏に属するが同じように従った郷土の姓に土井、井元、田中等も・・・・(北肥戦誌)
大町町の中世の年表に興味のある方はリンクして見てください。
(1)大町町史によると,
「永禄年間(1560年頃)福母には、後藤(武雄城主)の代官
鶴崎弥藤次が50町を領し福母城山におり、また大町には竜造寺の家来で不動寺出羽守が60町を領していた」との記載あり。.

木が生い茂っていて小高い所が福母城跡

大町町の中世の歴史

大町町公民館

こんな文献に先祖と思われる鶴崎の名が記載されています
大町町には、14世帯の鶴崎さんがおられようです。(福母9、大町5世帯)
大町町近隣の鶴崎さん情報へLINK
報恩寺
国土地理院・詳細地図2万5千分に1(武雄北東)
西福寺、福母八幡宮、報恩寺など
大町町の歴史
大町町は、平安時代から鎌倉時代にかけて宇佐神宮と密接な関係があり。
1167年に平清盛、杵島郡に大巧田を与えられる。
昔の地図(大町村:明治33年)      参照:日本図誌体系(朝倉書店) 
  大町村福母近辺には、畑や田んぼが見受けられます。この後,炭鉱町として発展していきます。大町村にはまだ国鉄  の駅はなく、国道の整備もなされてません。
昔の地図(大町町:昭和47年)           参照:日本図誌体系(朝倉書店)
大町町福母と江北町上小田(五抗)には、杵島炭鉱で働く従業員の為の住いが多く建てられました。
明治44年の地図と較べ、大町町に駅ができ、また白石方面への鉄道が敷かれています。国道の整備も完了 。     
  
大町村福母の大谷口周辺拡大地図(明治44年)
大谷口の入口の神社は神宮寺、福母の字の下が福母八幡宮、西福寺、右のお寺は、神子栄尊が開山の報恩寺です。福母城山の場所は大谷口の字の「谷」あたりです。
西福寺
報恩寺
福母八幡宮
神宮寺
福母城
大町町の写真