大友氏の筑後支配について
 
戦国時代、大友氏は筑後支配において、地域豪族を蒲池氏ほかの大名分(大身)高一揆衆(大友氏直参)を区別して配置対立させ、それぞれ牽制させて領国支配を行いました。蒲池氏を筆頭とする筑後の領主は、筑後守護であった大友氏の幕下にて戦の時は動員されてはいるが、常に独立あるいは敵対の可能性を秘めており、その対策の為、高一揆衆(一揆合衆)という大友氏直参の小豪族を配置し、大名分の大身を監視しするとともに、また官位の奏請(天皇に奏上して裁可を得ること)をおこない徴税の任に当たらせ、地頭の役目をさせていました。
 [大身十五家(筑後十五城)]
上蒲池(上妻郡/山下城)・下蒲池(山門/柳川城)・問註所(生葉郡/長岩城)・星野(生葉郡、竹野郡/生葉城)・黒木(上妻郡/猫尾城)・河崎(上妻郡/犬尾城)・草野(山本郡/発心城)・丹波(高艮山座主/高良山)・三原(御原郡/本郷城)・高橋(御原郡/下高橋城)・西牟田(三瀦郡/城島城)・田尻(山門郡/鷹尾城)・五条(上妻郡/矢部山城)・溝口(下妻郡/溝口城)・三池(三池郡/今山城)。
 [高一揆衆(大友直参衆)]
安武(三潴郡安武村/海津城)・上妻・町野・小河・菅・麦生・酒見(三潴郡酒見邑)・津村・江島・酒井田・坂田・甘木・辺春・谷川・行徳・古賀・高三潴・林田・木室・荒木(三潴郡荒木村)・水田・隈(三潴郡隈犬塚、大善寺玉垂宮大祝部)・稲員・諸富などの国人の諸氏。
「大善寺」
B鎌倉時代の後期、蒙古が1274年(文永の役)と1281年(弘安の役)と2回襲来して来ました。3回目の襲来の噂もあり御家人・武士の負担は非常に大きかったようです。この三潴(みずま)地区は、御家人に対する恩賞地配分の対象とされた事により、在地での矛盾が  激化。既存の領主とのいざこざがたえない所でした。
 当時の、両村と領主(荊津氏と藤吉氏)の記録に残っている様子です。
(2)朝日寺を寛元3年(1245)創建した、神子栄尊は、4年後の建長元年(1249)、肥前の国に報恩寺を創建しております。 その報恩寺は佐賀県大町町にあり、かっては、宇佐神宮や平清盛の所領となったことがあります。私の先祖の家(大町町福母)に非常に 近いところにあります。また、日宋貿易拠点でもあり、この地区とも相当行き来があった事を物語っております。
        
(荊津/鶴崎家も、この辺の伝手で移り住んだかもしれませんね??)
(3)平安時代から中世(鎌倉・室町時代における荊津・藤吉近辺の状況

@荊津、藤吉地区は、三潴(みずま)庄に属し、千歳川(筑後川)の川岸にあることから平家が推進した中国との日宋貿易の拠点の一つであり大いに繁栄していたようです。
    (鳥羽院の信任高かった平忠盛が院領荘肥前国神埼荘の管理を通じて日宋貿易を開始)。
北九州地区は、平清盛の支配下で、また大宰府、宇佐神宮の影響下でもあり、平安時代・鎌倉時代初頭は比較的のどかな時代であったように見受けられます。藤吉種継は日宋貿易で富を蓄え、「三池長者」といわれおります。また荊津氏の館も道蔵遺跡に隣接しており大いに繁栄していたようです。
A文治元年(1185)に平家が檀の浦で源氏に破れ滅亡。平家の勢力下にあったこの地域は慌しくなってきます。
文治年間(1185〜1189)に和田義盛が三潴庄地頭職に補佐され、その後 1192年源頼朝による鎌倉幕府が成立。
新しい御家人体制による本領 安堵(先祖代々の所領の支配権の保障)・新恩給与(新たな所領の給付)・官位推挙(朝廷に対し御家人の官職任命を求める)が進められました。
  従来からの名主層の武士は、下記文献のように御家人となっています。(三潴庄では荊津・住友・藤吉・荒木氏など。近辺では草野氏など)
三潴庄(みずま)    平家滅亡から鎌倉時代へ
 
筑後川下流左岸に広がり、三潴郡のほぼ全域に及んだ郡名庄。現在の久留米市西部から三潴町・城島町・大木町・大川市の全域、筑後市・柳川市の一部に比定される。庄の鎮守は大善寺玉垂宮(現久留米市)であった。本家は長承元年(1132)に鳥羽上皇の御願寺として創建された宝荘厳院(現京都市左京区)である。平治元年(1159)閏5月日の宝荘厳院領庄園注文案(東寺百合文書/平6)に「筑後国三潴庄 隆季」とみえ、これ以前に立庄されたことになる。
 隆季は、四条家の始祖となった四条隆季で、三潴庄の領家であった。当庄は全国有数の穀倉地帯に位置する宝荘厳院で最大の庄園で、同注文案によると年貢は米600石、綿411両。  「吾妻鏡」文治5年(1189)3月13日条には同日付け源頼朝請文が引かれ、後白河上皇からの申し入れに従い和田義盛の「鎮西三潴地頭」が停止されている。領家四条隆季の岳父は平清盛と結んで保元の乱で権勢を得た藤原通憲(信西)であり、隆季の嫡男隆房の室は清盛女で、隆季と清盛は相舅の関係にあった。和田義盛が三潴庄地頭に補されたのは、隆季と平氏との親密な関係により当庄が平家没官領に順じられていたためであろう。
 鎌倉幕府は、九州における平氏勢力の一掃に努め、名主層武士の所領を安堵して彼らを御家人として掌握した。例えば、三潴庄白垣(しらかき)[現大川市]の本補地頭白垣弥二郎宗平、田口村[現大川市]地頭職の田原泰平がいる。このほか三潴庄荒木村中富名[現久留米市]を相伝した大江(荒木)氏、八院村[現大木町]本主菅藤三入道助仏、是友名(これとも)[現久留米市]の本主住吉弥四郎為孝と子息孝景、大隈[現久留米市]在々所々を本地とする大隈右衛門佐、荊津村[現久留米市]を名字とする
荊津(国分寺)孫三郎入道教信(正和三年(1314)閏年3月10日「鎮西御教書案」青方文書/纂)、西牟田村[現三潴町]名主の西牟田行西、浜武村[現柳川市]を名字とする浜武三郎入道教円らの名がみえる。また、陸奥国糠部郡を本貫地とする東国御家人である横溝五郎は三潴庄内高三潴村[現三潴町]地頭に補された。これらは、庄内にある村々の本名主として所領を安堵された名主層の御家人である。三潴庄全体を管する惣地頭に対し。小地頭という。・・・・・・・・     [日本歴史地名大系(平凡社) 福岡の地名 を参照]
久留米市
夜明神社  (夜明神社改築記念碑)
 神社の由来 : 昭和十年に夜明下区の印鑰神社に上区の天満宮及び隈の天満宮を合祀して夜明神社と改称した。
   印鑰(いんやく)神社の開基年代は定かでないが、永禄元年丑年(1558年)領主安武安房守により再興される。その後、寛延時代に田中筑後守により神殿が再興される。以上古文書文記、寛延記による。また参道の鳥居には寛延四年(1748年)の記名があります。
   印鑰神社の祭神は、大國主命、宇多大采名命(宇多天皇)、武(竹)内宿禰で天満宮は菅原道真公である。その後、明治二十三年には、氏子総出の改修工事が行われ部分的な改修工事を実施したが老朽化が進み平成十五年には再建するに至りました。 
 神徳  : 農業殖産 学問・受験の神 病気平癒など。
 境内に首名塚(おびとなつか)がある。 道君首名は奈良時代初めの貴族で、筑後国初代の国司。      {竣工 平成十五年六月}
荊津地区の住所は、現在大善寺中津となっています。中津という地名は、中島村と荊津の一文字ずつを組み合わせて新しい地名にしたからです。
大善寺
☆藤吉氏は、1329年以降、所領を収公されたとしており、それ以降柳川市(旧三橋町)に移り住んだのでしょうか??
☆藤吉種継を、藤原種継と書かれた文書が散見されます。(奈良時代末期の同姓同名の藤原種継とは異なります)
西暦1500年初頭は、荊津・藤吉・夜明地区は、戦国時代は大友家直参衆の安武氏の領地、管理下になっていたようです。
荊津(おどろつ)村  久留米市大善寺中津
筑後川下流左岸、支流の広川(大善寺川)の右岸の平地に位置する。鎌倉期〜戦国期に見える尊名。蕀津とも書く。
筑後三潴(みずま)郡三潴庄のうち。永仁4年(1296)12月日の玉垂宮大善寺仏神寺文(御船文書/鎌25)によると、大善寺玉垂宮の春祠使幣官料六斗・三月朔幣料五斗(在公神楽)の神事用途を負担し、五月会で村田楽・尻巻・左方相撲を出し、9月19日の九月会では夜明と共に二十番の頭役を務めその料田二反四丈があった。
当地を名字の地とする領主として荊津
が知られている。
 元亨2年(1322)3月7日、荊津次郎入道は「筑後国大隈四王寺」をめぐり香西駒松丸に訴えられている(「鎮西御教書写」大隈文書/鎌36)。荊津氏は鎌倉後期から南北朝期にかけて白魚氏と三潴庄是友名をめぐって相論をおこなった。
貞和3年(1347)九月23日の高良宮祭料米色々神役村々注文書(御船文書/南二)では、春祭分の祭料米六斗、祭頭・三月朔料米五斗・九月会・相撲・尻巻・大善寺檀供九枚を負担した。同年、9月22日の高良玉垂宮・大善寺免田注文写(同上)によると現役田ならびに人給等として楽田一町があった。 貞和頃(1345〜1349)と推定されるが、三潴庄内所領坪付注文(詫摩文書/南三)には、「荊津村・・・・志賀孫三郎」とあり志賀氏が所領を有していた。至徳二年(1385)9月28日の足利義満御判御教書(酒見文書/南6)で、白垣村(現大川市)東西地頭職とともに荊津孫三郎入道跡が勲功の賞として酒見武教に与えられた。
応永年間(1394-1428)の5月12日の大友親著安堵状(酒見文書/佐20)によれば、豊後の大友親著は、酒見宮内少輔に三潴庄内荊津と恒武をその本領であると安堵している。天正15年(1587)7月の大善寺領注文に同寺の寺領として8反、畠地2ヵ所などが荊津にあることが見える。
 鎮守は天満宮で、寛永元年(1624)社殿が再興された(寛文十年寺社開基)。他に鎌倉より勧請したと伝える若宮(寛延記)、荊津伊賀守の館跡があったという(筑後将士軍談)。明治9年(1876)中島村と合併して中津村となる。
   [日本歴史地名大系(平凡社) 福岡の地名 を参照]
朝日寺
 臨済宗妙心寺派、夜明山。本尊は地蔵菩薩。寛元3年(1245)神子栄尊が創建。朝日縁起抄録では栄尊は平康頼(一説には安徳帝ではとの談)とこの地の娘(藤吉種継の娘)の間に生まれた子。長じて渡宋し、無準に学んだが、三世にして法統は絶えたが、元禄年中(1688−1703)虎渓が中興して妙心寺派となった。神子栄尊像(県指定文化財)は檜材、寄木造、黒漆塗の肖像彫刻。
 鎌倉時代の禅宗は、豊前国では宇佐宮との結びつきにより浸透していき、寛元元年(1243)栄尊は、円通寺を開創した。また肥前の国(大町町)に報恩寺を1249年に創建。
 久留米市大善寺町は、三潴(みずま)郡の宮本・中津・夜明・藤吉・黒田の各村を合併しながら設立。
 大善寺は日本三大火祭りの鬼夜で有名な玉垂宮たまたれぐう。672年開基・大善寺)、5世紀後半の御塚古墳(帆立貝式前方後円墳)と6世紀前半の権現塚古墳(円墳)等、歴史深い所です。
 また、平家落人の伝説で、平家と源氏が戦った檀ノ浦合戦でなくなったとされている、安徳天皇は実は生きており、筑前から筑後に入り、鳥栖市下野→久留米市長門石→大善寺へ移り隠棲、藤吉種継の娘千代姫と間に、男子をもうけた。それが後の朝日寺の開山・高僧 神子栄尊禅師あるとの説が残っている。
 藤吉(藤原)種継は、平清盛の信頼高く、筑後川河口の領主で直接貿易にたずさわっていた。因みに、安徳天皇はその後28歳で天然痘で崩御されたとの言い伝えがある。
是友名(これともみょう){久留米}  久留米市安武町住吉?
 [中世] 鎌倉期〜南北朝期に見える名(みょう)の名。筑後国三潴(みずま)郡三潴荘のうち。是友村とも見える。永仁4年12月日の筑後玉垂宮大善寺仏神注文写(隈文書/鎌遣19238)によると、「是友」は三潴荘東郷に属し、三潴荘鎮守玉垂宮の正月15日供料米、同17日歩射供料米並びに2月中卯日の春祠使幣5斗を負担し、さらに5月15日の五月会の際左方相撲人を出した。これらの仏神事役は貞和3年(1347)9月23日の高良宮祭料神役村々注文写(御船文書/南北朝遺2372)では春祭分是友村として「祭料米五斗 正月十五日御供料米五斗六升 大善寺檀供五枚」とある。同年同月の玉垂宮大善寺免田注文写(同前/同前2371)によると灯油田7反半が是友名であった。
 是友名は嘉元3年(1305)4月6日、肥前五島の白魚行覚に弘安4年(1281)の蒙古合戦勲功賞として地頭職が与えられた地でもあった。白魚行覚は応長元年(1311)9月国分寺孫三郎(荊津考宗)が是友名田地荒野などを押妨したと訴えた。これに対して
孝宗は是友名の本主である住吉為孝子息孝景をさしおいて自分を訴えるのは理由がないことだと反論している。正和3年(1314)2月17日の鎮西探題御教書案によれば、探題北条政顕は筑後守護宇都宮頼房に対し守護代に下知して白魚行覚と荊津教信(孝宗)代官孝景との是友名をめぐる相論について論争地が行覚の給分内かはたまた外かなどを調査し報告するように命じている。同じ命令を政顕は同年閏3月山田小太郎入道にも出しており、文保2年11月には北条隋時も命じている(青方文書/纂集)。前年文保元年(1317)3月には弟子丸代所として是友村が大隈兵部丞に与えられている(大隈文書/三潴荘史料)が白魚氏や荊津氏などとの関係は定かでない。元徳2年(1330)5月白魚盛高は嫡子「ちょをに丸」(繁)に是友名の勲功の所などを譲り、正平12年4月には白魚政が嫡子「をとわか丸」に是友名住吉弥四郎為則跡地頭職を譲り、さらに同20年12月は是友名田地1反などを八郎丸に譲っている(青方文書/纂集)。建徳2年(1371)7月白魚乙若丸は枝光教家の非理を止め是友名内田地屋敷などの土地を渡して欲しい旨言上しており、同年9月得益長覚は経家に書を送り「白魚殿御分」について和解するよう勧告した(同前)。
 なお、天正15年(1587)7月の大善寺領注文によると同寺領1反が是友にあった。当名の比定地は、本領主として
荊津氏が出るから荊津村の近くであろう。久留米市大善寺町中津付近と推測される。   (角川日本地名大辞典(福岡)を参照)
是友名(是友名の場所は、三潴庄住吉のうちと推測される中世の名。)をめぐる御家人白魚氏と在地領主荊津氏・住吉氏との永年に渡り紛争が続いたようです。(青方文書)     その詳細は、
(4)室町時代の1350年前後より、三潴庄は筑後国に勢力を増強してきた豊後の大友氏の支配下に属し、大友氏の家臣が配置されることになった。その後、大友氏(豊後国・筑後国)と肥前の龍造寺氏、そして島津氏(薩摩)の三者の激しい抗争が始まる。
藤吉村   久留米市大善寺藤吉
広川(大善寺川)下流左岸の平地に位置する。中世は三潴庄東郷のうち。南北朝時代に安楽寺(大宰府天満宮)領となる。建仁元年(1201)の高良宮造営田注文に藤吉三町が見える。承久3年(1221)9月28日の高良玉垂宮定額衆注文(御船文書/鎌五)によると、藤吉には本定額15口のうち背振山大教坊安常が知行する料田1町があり、柳坂実乗厳琳が知行する高三潴(現三潴町)の仁王講田1町に「藤吉一反別人」の注記がある。応仁四年(1296)12月日の玉垂宮・大善寺仏神事記文(御船文書/鎌25)によると藤吉村は大善寺玉垂宮の春祠使幣官料一石六斗の神事用途を負担し、五月会では渡物として恒武村(比定地未詳)とともに一番馬長二騎を出し、ほかに一物を負担する六カ村の一つであった。
当地を名字とする領主に藤吉氏がいる。
朝日寺の開山神子栄尊の母は三潴庄住人藤原(吉)種継の女であった(栄尊和尚年譜)。他方、建武3年(1336)3月に三潴庄藤吉村地頭職を安堵された藤吉又次郎種家の子息光童丸の言上状案(高浜辺文書/鎌7)によると、この地頭職は光童丸の高祖父田尻四郎種継が文永の役(1274)の恩賞として与えられた所領であったが、元徳元年(1329)以来、収公されたという。(収公とは: 領地などを官府がとりあげること。没収)
また、年月未詳の三潴庄地頭名主交名注文(東寺百合文書/鎌27)によれば、三潴庄領家(四条家)の氏寺である法常住院領に属し、米生九郎二郎種守が地頭を務めた。田尻氏は三池郡田尻(現高田町)を米生氏は同郡米生(現大牟田市)を名字の地とし、共に大宰府府官大蔵氏の一族である。
藤吉種継は、「神子禅師行美」が藤氏とするが、名乗りは大蔵系藤吉の通字「種」を用いているので、のちの大蔵系藤吉氏と別系であるか否かは、にわかに断じることはできない。
               [日本歴史地名大系・福岡の地名(平凡社)を参照]
柳川市(旧三橋町)の藤吉
塩塚川中流右岸に位置する。地内高吉の地名の通り、往古は高い葦の生えた海辺の地と考えられる。当地に藤吉という庄屋がいた。伝説によると、久留米の大善寺藤吉より当地に移って来たという。藤吉氏は、「蒙古襲来絵詞」に見える人物である。高吉に風浪神社があり、神宮皇后が祀られた神社といわれ神池に船の一部といわれる浮木がある。    [角川日本地名大辞典(福岡)を参照]
筑後将士軍談に見る城と館(久留米市教育委員会H14) 荊津村館跡
久留米市文化財(大善寺地区)へリンク
 久留米市教育委員会文化財保護課作成の大善寺地区文化財紹介(下記リンク)の中に、荊津氏の記載があり、鎌倉〜室町時代、西暦1200年頃栄えていたようです。
荊津の天満宮
 鳥居が2つもある立派な天満宮でした。荊津公民館に隣接しおります。道蔵遺跡にも隣接しています。道蔵遺跡は、弥生時代の環濠集落・誓棺墓地で、広形銅文などが見つかっています。奈良〜平安時代の大きな建物は、古代三瀦郡の役所と考えられています。
玉垂宮(たまたれぐう)
 玉垂宮は武内宿彌、八幡大神、住吉大神が祭る。神功皇后の三韓出兵に大功のあった藤大臣(高良大明神・玉垂命とも称す)が、ここで没し、天武天皇のころ、672年(白鳳元)三池長者師直が、玉垂宮の古跡に法相宗の僧安泰をして祭神を祭らせ、そばに1宇の精舎を開基して御廟院高法寺と号したのに始まるといわれます。 後に天台宗となり、814年(弘仁5)、殿堂、楼門、回廊など新たに建立し、善美を尽くしたので大善寺と改められました。(盛期には衆徒45坊、社領3000町) 明治維新後の神仏分離政策によって、神社と寺院は区別されることになり、寺院は、明治二年(1869)の廃仏毀釈で大打撃を受け、このとき久留米藩では、玉垂宮のみを残して大善寺を廃止した。 国の重要無形民族文化財で、日本三大火祭りの一つである鬼夜は有名。
 永仁4年(1296)の「玉垂宮仏神事次第写」に、荘園村落として、夜明・藤吉・荒木・荊津・大隈・津福・安武・白口・黒田などの村々が記載され、現地名として残っています。
藤吉天満宮
 正治2年(1200)、藤吉種綱による創建という(社方開基)。天満宮境内には、慶長17年銘の肥前型狛犬がある。また、庄屋鶴崎氏の祖と伝える荊津伊賀守の館跡が地内にあるという(筑後将士軍談 )  
 入り口には、藤吉天満宮と若宮八幡宮と列記されており、「津留崎」さんからの寄進物が非常に目立ちました。
同じ呼び名の「鶴崎」と「津留崎」の関係は??
 筑後将士軍談(久留米藩士:矢野一貞著)に記載されている、荊津(おどろつ)、宮本、藤吉はいずれも地名として下の地図のごとく残っています。
 宮本は、由緒高い玉垂宮の所在地であった事もありそう呼ばれていたようです。
 荊津は、中世鎌倉期の当地の領主で、御家人であったようです。
安徳天皇と関係のありそうな藤吉氏にも近い事もあり興味のある所と感じました。また藤吉氏は、「蒙古襲来絵詞」に見える人物でもある。
■姓氏家系大辞典(角井書店)では、
「筑後の名族。将士軍談に宮本村庄屋 鶴崎氏が見える。」

■筑後将士軍談には 
「荊津
(おどろつ) 村館跡。大善寺友鳳和尚云ふ、宮本村庄屋鶴崎氏云ふ、我が祖荊津伊賀守の館跡は、藤吉村幸市と云ふ者の宅の邊に観音堂あり。則ち其の所也と。 この鶴崎氏、則ち荊津入道の遠孫か、尋ぬべし」と。
津留崎さん研究(久留米地区)
久留米大善寺地区中世歴史年表
久留米市・水天宮
荊津氏の名字、別名「国分寺」と記載されているが、昔は国分寺に関連する名主か?。
★印鑰(いんやく)の意味: 印ははんこ、鑰(やく)は倉庫の鍵のこと。印鑰は国司の国内支配の象徴であり、国司が任国に赴任すると、まず印鑰を受け取ることが重要な仕事でした。
★筑後将士軍談に「開基帳、
夜明印鎰宮件云、古ハ正月十日ノ祭禮、安武安房守家来、津留崎岩見守代官トシテ社參、供物ヲ備ラル、云々」との記載あり。
(1330年頃より荊津氏の名前が見受けられないが、どうなったのでしょうか??)
宮本
藤吉
荊津
玉垂宮
朝日寺
藤吉天満宮
天満宮
明生寺
筑後川
御塚・権言塚古墳
荊津公園
三潴町
久留米市
(1)久留米市大善寺の中津(旧荊津)と藤吉地区には、鶴崎姓の方は皆無ですが、同じ読みの「津留崎」さんが非常に多く住んでおられます。   「津留崎」姓と「鶴崎」姓との関係に興味をいだきました。それゆえ、調査をして見ました。
夜明神社
中世武士団分布図(鎌倉期)
 [角川日本地名大辞典より抜粋]
筑後の御家人で、荊津・藤吉・荒木・白垣・大隈・西牟田・横溝・八院・江上氏の名前が見えます。
 また、非御家人で蒲池・酒見氏もみえます。
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