西暦 | 和暦 | 出来事 | 補足事項、言い伝え他 | 動き | |
奈良時代 | 710 | 和銅3 | 奈良時代。元明天皇が平城京(奈良)に遷都。 |
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713 | 和銅6 | 道君首名が新羅より帰国後、初代筑後の守に任じられる。 |
道君首名は、筑後の国土開発に尽力、条里墾田も施行。印鑰神社(現夜明神社)の境内に首名塚がある。 | ||
741〜 | 天平13 〜 | 筑後国分寺の創建。聖武天皇、国分寺(国分僧寺・国分尼寺)造営の詔が出される。 | |||
平安時代 | 794 | 延暦13 |
平安時代。桓武天皇が都を平安京(京都)に遷都。 |
桓武天皇が都を平安京に移した794年から源頼朝が鎌倉幕府を開いた1192年までの約400 年間をいう。 | 荊津氏・藤吉氏栄える。 日宋貿易も盛ん。 筑後川に湊があった。 |
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901 | 延喜元 | 菅原道真、右大臣から大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷される。 |
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923 | 延長元 | 菅原道真、903年大宰府で死去。死後天変地異多発。その後名誉回復。923年に右大臣に復し、正二位を贈られ、更に993年、正一位、左大臣、太政大臣を贈られた。 | 菅原道真は没後、名誉回復。子供達も流罪を説かれ、長男・高視の子孫は中央貴族として残り高辻家・唐橋家を始め6家の堂上家(半家)を輩出。 | ||
1133 | 長承2 | 平忠盛、院領肥前国神埼荘の貿易管理→日宋貿易 |
鳥羽院の信任あつかった平忠盛(平清盛の父)は、院領荘園肥前国神埼荘の管理を通じて日宋貿易を開始した。 | ||
1158 | 保元3 | 平清盛が大宰大弐となり九州へ進出。 また、平家貞も筑後守に補任される。 |
平家貞は、薩摩の阿多忠景や肥前の日向通良の反乱を鎮圧するなど、平氏の九州での勢力拡大に大きな役割を果たす。 | ||
1167 | 仁安2 | 平清盛、太政大臣に就任。平家の全盛期。 平清盛、肥前国の杵島郡に大功田を与えられる。 |
九州の国々は平家の知行国(領地)となっているが、当地で強力な力を有していた宇佐八幡宮、安楽寺(大宰府天満宮の前身)と緊密な関係を有す。筑後の豪族も平家と仲良くし所領の安堵、日宋貿易での収益を得ていた。 | ||
1177 | 安元3 | 鹿ヶ谷の陰謀。後白河院の近臣と平家打倒を謀るが発覚。(6月) 平康頼、藤原成経、俊寛は薩摩の鬼界ヶ島へ流される |
平康頼、九安2年(1146)?〜承久2(1220) | ||
1178 | 治承2 | 平清盛の特赦で翌年、平康頼は帰京。(7月) (平家物語等) |
高倉天皇の妃となった建礼門院(清盛の次女・徳子)が懐妊したが高僧貴僧に命じて皇子の誕生を祈らせたが、徳子は体調を崩していた事などで生きている者たちの罪を赦し放免とした。 | ||
1178 | 治承2 | 安徳天皇生まれる。 |
慰霊や恩赦の効果があったのか、徳子は皇子(言仁親王、後の安徳天皇)を出産。 | ||
1180 | 治承4 | 安徳天皇、即位。 |
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1185 | 文治元 | 壇の浦で平家と源氏が激突。平家滅亡。 (安徳天皇は入水死亡となっていますが、生存説は全国に20ヵ所程度あるようですが、九州久留米市には文献等多く残っています) |
・安徳天皇伝説(生存説 ): 安徳天皇(当時8歳)と二位の尼(平清盛の正室)、平知盛らは壇ノ浦より逃げて久留米竹野村平へ。そして藤吉種継の屋敷へ。(入水した安徳天皇は身代わり?。宇佐公通の嫡男公仲(同じ年)の説も) ・安徳天皇(神子栄尊では?)は、久留米で天然痘で28歳で崩御? 菩提寺は久留米の日輪寺とされている。 |
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1185 | 文治元 | 鎌倉幕府、守護地頭職の配置。 筑後国の初代守護職は大友能直。鎮西探題職は天野遠景。 |
大友能直が重用された理由として、源頼朝の御落胤(二男)との説もあり。 | ||
1185〜1189 | 文治年間 | 和田義盛が三潴庄地頭職に補佐。 | 和田義盛は鎌倉幕府創業の功臣。三浦氏の一族で源頼朝の挙兵に参加。鎌倉に頼朝の初期武家政権がつくられると初代侍所別当に任じられる。建暦3年(1213年)の和田合戦で鎌倉由比ガ浜にて死去。 | ||
鎌倉幕府は、三潴庄において平氏勢力の一掃に努め、当地在住の名主層武士の所領を安堵した。三潴庄では、白垣氏、田原氏、大木(荒木)氏、菅藤(八院)氏、住吉氏(是友名)、大隈氏、荊津氏、浜武氏、横溝氏などを御家人としている。 | |||||
1186 | 文治2 | 草野永平が源頼朝より筑後国在国司に任じられる。 |
源頼朝が伊豆で挙兵し、草野永経と菊池氏らと共に源氏方に味方し、元暦元年(1184)平氏と戦った功により、御井・御原・山本など三千町歩の所領も賜り草野氏は筑後・肥前にまたがる一大勢力となった。 | 久留米米地区北部の山本郡は草野氏、南部三潴郡は、筑後十五城筆頭、柳川城の蒲池(カマチ)氏が、戦国時代が終わるまで統治した。 | |
1190 | 建久元 | 蒲池久直(もと源九直:蒲池氏初代)、筑後国三潴郡の地頭職を任じられる。 | 日宋貿易の拠点だった肥前国神崎にいたが、壇ノ浦の戦いで源家方につき、その功により鎌倉幕府の鎮西御家人となり、その後、建久元年三潴郡の地頭職に任じられ、同郡蒲池邑に土着した。 | ||
鎌倉時代 | 1192 | 建久3 | 鎌倉幕府の成立(1192〜1333) 源頼朝、征夷大将軍となる。 |
鎌倉初期の筑後地方の大きな政治の流れとしては、耳納山麓に草野氏、京都の宝壮厳院を本所とする三瀦庄に横溝・大隈・荒木等の御家人武士の動きである。なかでも、国司の特権を利用して強大な領主となった草野氏が注目され「高良御宮在国司」として祭祀にも深く関与した。 |
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1195 | 建久5 | 神子栄尊生まれる。 (母は藤吉種継の娘、父は平康頼が通説ですが、安徳天皇であるとの伝説あり) |
・藤吉種継は、平清盛の信任厚い筑後川河口の領主であり、日宋貿易に携わっていたことから三池長者と呼ばれる大金持でした。 ・久留米地区には、神子栄尊は平康頼の子でなく、壇ノ浦で生き延びた安徳天皇と藤吉種継の娘との間でできた子との説があります。平家平康頼はすぐ特赦で帰路(1178)、年次が合いません。 ・安徳天皇は、久留米で天然痘で28歳で崩御? 菩提寺は久留米の日輪寺とされている。 |
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1190〜1199 | 建久年間 | 久留米の千歳川(現筑後川)のほとりに按察使の局伊勢が尼御前神社(後の水天宮)を創建。 | ・按察使の局伊勢は、高倉平中宮に仕え壇ノ浦の戦いで生き延びた。 ・安徳天皇と平家一門の霊を祀る祠を建てたのに始まる。伊勢は剃髪して名を千代と改め、里々に請われて加持祈祷を行ったことから、当初は尼御前神社と呼ばれた。 |
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1200 | 正治2 | 藤吉種綱が藤吉天満宮を創建。 | (藤吉天満宮には、後に津留崎氏からの寄進が極めて多い。) | ||
1207 | 承元元 | 大友能直(大友氏初代当主)、筑後国守護職となる。 | 大友能直は、建久7(1196)に豊前・豊後の守護職と鎮西奉行になっている。(大友能直は相模国出身、母利根局は源頼朝の妾であり能直はご落胤との説あり) | 大友氏が筑後の守護職に。 | |
1245 | 寛元3 | 神子栄尊、筑後国(大善寺夜明)に朝日寺を創建 | 宋に渡り修行、亀山天皇から神子栄尊という称号をもらい朝日寺を始め肥前・肥後に禅寺を創建した。宇佐神宮との結びつきも大。 | ||
1249 | 建長元 | 神子栄尊、肥前国(大町町)に報恩寺を創建 | 宇佐神宮との結びつき大。母、岩松の恩に報いるために寺を建てたとの事です。(久留米大善寺地区と肥前大町町との関係が深まったのでは) | ||
1272 | 文永9 | 神子栄尊死去 78歳 (12月) | |||
1272頃 | 文永9頃 | 大友頼康(第3代当主。豊後守護・鎮西奉行)の代に豊後に下向し蒙古襲来に備えるべく陣頭指揮をとる。 鎮西の地頭・御家人に筑前・肥前の要害警護を命じる。 |
大友氏は相模大友郷から豊後に移住、土着し、豊後の豪族的領主としての性格を強めていった。 | ||
1274 | 文永11 | 蒙古襲来(第1回) 文永の役 筑後国から田尻三郎種重・神代・黒木・星野・西牟田弥二郎永家・草野筑後権守教員らが馳せ参じた。 ・田尻種継は文永の役の勲功地として三潴庄藤吉村の地頭職を賜る。 |
元・高麗軍、約3万人(約900隻)が進攻 |
三潴庄が蒙古襲来の恩賞の地となり荊津氏や住吉氏(是友名)の領地まで影響。紛争大。 | |
1276 | 建治2 | 鎮西武士に蒙古襲来対策のため防塁(石築地)を築かせる。 | |||
1281 | 弘安4 | 蒙古襲来(第2回) 弘安の役 筑後国から参戦したのは、田尻種重・種光兄弟(討死)、西牟田弥次郎永家、横溝馬次郎資為法師、龍造寺家益など |
江南軍約10万人(約3500隻)と東路軍約4万人(約900隻)が進攻 *この元寇での恩賞をめぐって筑後国三潴地区は既存の領主との争いが絶えなかった。 |
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1293 | 永仁元 | 鎮西探題が設置される。 | 鎮西探題の職務は、西海道(九州)の政務・裁判・御家人指導。北条一門。 | ||
1314 | 正和3 | 荊津考宗は鎌倉後期から南北朝にかけて白魚行覚と三潴是友名(住吉地区)をめぐって相論。探題北条政顕が筑後守護宇都宮頼房に対し、守護代に下地して両者の言い分を調査し報告するよう命じている。(2月) (鎮西探題御書案) | 荊津孝宗(教信)は、書物で「国分寺」の名字も持っているようで、筑後国国分寺(久留米市にあり)と関係あったかもしれません?。 宇都宮頼房の子が宇都宮冬嗣で冬嗣より城井を称す。 |
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1322 | 元亨2 | 荊津次郎入道は、「筑後国大隈四王寺」をめぐり香西駒松丸に訴えられている。(3月) (鎮西御教書写/大隈文書) | 大隈四王寺の名は、三潴庄にあった村名。 | ||
1329 | 元徳元 | 藤吉村、収公される。 | *収公:領地などを官府が取り上げる事。没収。 | ||
1333 | 正慶2 | 鎌倉幕府滅亡(5月) 足利尊氏が六波羅探題攻略、新田義貞、鎌倉攻略。 |
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1336 | 延元元 | 南北朝分立。 後醍醐天皇、京都から吉野へ脱出。 |
足利尊氏(北朝)と後醍醐天皇(南朝)の対立。大友氏は、南北朝時代には北朝方についた。 | ||
室町時代 | 1338 | 延元3 | 室町幕府の成立(1338〜1573) 足利尊氏、征夷大将軍に就任。 |
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1345〜1349 | 貞和頃 | 荊津村(10町分)の所領が志賀孫三郎に渡る?。 [三潴庄内所領坪付注文(詫摩文書/南三)] |
志賀氏は託摩・田原氏と並ぶ大友三大支族のひとつに数えられ、初代能郷は大友能直の八男。延応二年(1240)、母深妙より豊後国大野郡大野荘志賀村の地頭職を分与され、志賀村に住んで志賀氏を名乗った。 | 大友氏の息のかかった武士が重用されてきた。 | |
1349 | 貞和5 | 足利直冬は詫磨(たくま)徳丸に三潴庄地頭職と領家職を恩賞として与えた。 |
詫磨氏: 大友氏 庶家中の大友三家の一つ。初祖は 詫磨 別当(べっとう) 能秀(よしひで) 。 大友 能直(よしなお) の次子。肥後守。大友氏の勢力拡大へ寄与。 | ||
1359 | 延文4 正平14 |
筑後川の戦い{大保原合戦/大原合戦} → 九州の南朝勢力拡大)。(8月) 懐良(かねよし)親王・菊池武光・草野永幸・蒲池氏{南朝方}が少弐頼尚・大友氏時・城井冬綱(宇都宮冬綱){北朝方}を破る。 南朝約4万、北朝約6万の大軍が筑後川を挟んで戦った。「関ヶ原の戦い」「川中島の戦い」と並び日本三大合戦といわれている。 |
南北朝の動乱。敗れた足利軍(北朝方)は大宰府に逃れ、九州はこの後10年ほど南朝の支配下に入ることとなった。 征西将軍宮懐良親王が布陣した場所は現在の久留米市宮ノ陣である。また、戦いに勝利した菊池武光が刀についた血糊を川で洗った場所が太刀洗であり現在の福岡県太刀洗町である。(小郡市松崎地区(もと鶴崎と称す))にも近く戦場になったと思われる) |
南北朝時代、南についた菊池氏・蓮池氏の勢力大。酒見氏は蓮池の親族で荊津、白垣氏の所領が取られたか。 | |
1361 | 康安元 正平16 |
征西将軍 懐良親王(南朝)、大宰府を占拠 |
懐良親王は、後醍醐天皇の皇子。 | ||
1365 | 貞治4 | 藤吉村(20町)、足利義詮の寄進で安楽寺(現:太宰府天満宮)領となる。(6月) [足利義詮御判御教書] |
1358年、足利尊氏死去、足利義詮が2代将軍に。 | ||
1371 | 応安4 建徳2 |
今川了俊、九州探題に就任 |
九州探題:九州諸将を統制。 九州は南朝軍が強く、足利義満は、最後の切り札として今川了俊を探題として任免、西下させる。 |
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1372 | 応安5 建徳3 |
今川了俊、南朝征西将軍府を攻撃、大宰府を占拠(北朝側勝利) |
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1380 | 康歴2 | 豊後国直入郡直入郷内給人注文御恩帳に、給人として荊津新佐衛門入道の名が見える。 | (豊後国直入郡は、大友家の直轄地で、現在の大分県竹田市) | ||
1383 | 永徳3 弘和3 |
征西将軍懐良親王死去、九州の南朝勢力弱体化 |
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1385 | 至徳2 | 荊津村の所領は酒見武教へ?。 白垣村(現大川市)東西地頭職とともに荊津孫三郎入道跡が勲功の章として酒見武教に与えられた。(9月) (足利義満御判御教書) |
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1392 | 明徳3 | 南北朝の合体 |
九州地区では、1383年、征西将軍懐良親王死去してより南朝勢力弱体化。 | ||
1394〜1428 | 応永年間 | 荊津と恒武(大善寺寺玉垂宮近辺?)が本領として酒見宮内少輔に安堵されている。
(大友親著安堵状/酒見文書) |
酒見氏:三潴郡三潴郡酒見邑(現大川市)の風浪宮の神官、風浪宮の西に酒見城があっといわれています。菅原姓を称す。蓮池義久の子の酒見久種の系列もありますが同族関係にあったと推測されます。風浪宮は永禄3年[1560年]蒲池鑑盛が再建しています。 大友親著は、大友氏11代当主。 |
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1395 | 応永2 | 九州探題今川了俊を罷免 |
後任は足利一門の渋川満頼。渋川は、大内氏の後援で地位を保てる状態で、今川了俊が失脚後、大内氏が台頭する。 | ||
1396 | 応永3 | 南北朝が合一されたが、豊後の大友親世と熊本の菊池武朝とが筑後において勢力を争い戦った。菊池に味方する蓮池、問註所、田尻、草野、西牟田などは山川要川での戦いで大友勢と戦い破れ降参する。 |
大友氏と肥後を地盤とする菊池氏との権力争い。この時代は菊池氏が優勢。 | ||
1433 | 永享五 | 菊池武興は筑後の酒見城を攻撃陥いれ、つづいて前の九州深題渋川義俊を撃破(酒見城で死去)したので、筑後の諸侯は再び菊池氏に従う者が出て来た。 | |||
1467 | 応仁3 | 応仁の乱 | 室町時代の応仁の乱以来、天下は乱れ、幕府がおとろえると、戦国大名が現れ、互いに自分の領地を広げる為に戦争を起こした。 | ||
1504 | 永正元 | 大友氏、蒲池家の勢力分散のため上蒲池(山下)と下蒲池(柳川)に分離した。 |
筑後守護の大友氏、蒲池家の勢力分散のため本家15代目の蒲池鑑久の領地(上蒲池)1万2千町と山下の山奥に本家の鑑久の弟の蒲池親広を大名分として分家(下蒲池)8千町とした。 | 三潴庄の安武に大友氏の息のかかった安武氏を配し、荊津・藤吉・住吉・夜明け地区を領土とした。宿敵の菊池氏を滅ぼす。 | |
1508 | 永正5 | 安武鑑教が海津城に入部。 (歴代鎮西誌) | 安武氏は、河内国より茨木重政が大友義鑑に仕えて安武荘に下向し海津城を築き安武鑑政のちに鑑教と名乗った。 大友の一族の娘を室に向かえ、三潴郡内15カ村を支配下とした。(荊津・藤吉・夜明も含まれる) 安武氏は高一揆衆(筑後の大友直参衆)の一人。 |
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1534 | 天文3 | 勢場ヶ原合戦: 中国の雄、大内義隆と大友義鑑との戦い。大友氏勝利(4月) |
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1543 | 天文12 | 大友義鑑、肥後守護職となり、筑後・豊後と合わせて3カ国の守護となる。 |
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1545 | 天文14 | 有馬義貞方に味方していた肥前・多久の豪族鶴崎源太左門尉正明は、山下の柵で龍造寺周家に勝利し、佐嘉に追い返した。(多久崩れ) | (佐賀県多久市の鶴崎氏) | ||
1550 | 天文19 | 大友二階崩れの変(2月) 大友義鎮(のちの大友宗麟)が家督を継ぐ。大友氏21代当主。 |
大友家、跡目相続の変。これにより大友義鎮(のちの大友宗麟)が家督を継ぐ。また吉岡長増、加判衆に復帰(8月)、以後大友三老にして臼杵鑑速や吉弘鑑理と共に重用される。 吉岡長増(宗鑑)は、1534年(天文3)〜1550(天文19)まで歴史の記録なく失脚していたものと推測される。 |
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1550 | 天文19 | 大友晴英、大内氏を継ぐ。(3月) のち大内義長と改名。 |
大友晴英:豊後大友氏の第20代当主大友義鑑の次男として生まれる。天文12年(1544年)、生母が大内氏であった関係もあり、実子の無い叔父の大内義隆の猶子として迎えられていた。義隆の重臣陶隆房の力添えで当主となる。 |
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1551 | 天文20 | 大友氏と大内氏は瀬戸内海の海賊の暴挙対策として、各々監視する関守(せきもり)を置くことになり、大友宗麟は、冨来・鶴崎・佐賀の関をその拠点とした。 | 「武家万代記・海賊家事」に記載。 鶴崎(津留崎)鎮義は、この鶴崎を任されたのか?。 |
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1554 | 天文23 | 大友義鎮(宗麟)、肥後国の菊池氏を滅ぼす。 | 菊池義武は、大友義鎮(宗麟)の叔父 | ||
1554 | 天文23 | 大友義鎮、肥前の守護職となる。(8月) | |||
1557 | 弘治3 | 大内義長(大友義鎮の弟)が毛利元就に討たれ、大内氏滅亡。 |
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1558 | 永禄元 | 大善寺夜明の印鑰神社(後の夜明神社)を領主安武安房守により再興。 | 印鑰神社の開基帳では、津留崎岩(石)見守は安武安房守の家来で、代官として正月に神社に供物を持参していたと記載あり(筑後国史・将士軍談) 時期不詳!! | ||
1558 〜 1562 |
永禄元 | 門司城攻防戦。 大友氏と毛利氏との豊前・門司城の争奪戦。 永禄元年(1558)〜永禄5年(1562)の長期にわたり、将軍足利義輝の調停で和睦。 |
(大友方の勇将に伊美弾正がいた。) | ||
1559 | 永禄2 | 大友義鎮(宗麟)、豊前・筑前・筑後の守護職となる、ついに北九州六カ国の守護となる。(6月)また同年、九州探題となる(11月)。 | |||
1560 | 永禄3 | 豊後国鶴崎にて鶴崎踊が始まる。 戸次鑑連(立花道雪)が大友義鎮は政事に真面目に取組む事を願って始めた。 |
*鶴崎踊りが戸次鑑連で始まった事は、このころ鶴崎の地が吉岡氏の管轄ではなかったのでは? | ||
1561 | 永禄4 | 豊前今井・元長(現行橋市)での戦船。 門司城争奪戦、海戦絵図に大友方鶴崎鎮義の軍船が描かれている。 |
鶴崎(津留崎)鎮義は、大友水軍で中心的働きをしていたと推測されます。 | ||
1564 | 永禄7 | 肥前国大町町の福母城山にいた鶴崎弥藤次の名が見える。龍造寺長信が須古の平井氏を攻める時に平井方に味方する。 | (佐賀県大町町の鶴崎氏) | ||
1567 | 永禄10 | 戸次鑑連(立花道雪)、宗麟の媒酌で門注所鎮連の娘仁志姫(もと安武鎮則の妻)を継室に向かえる。 | 安武鎮則が龍造寺側についた故、門注所が娘を引き取り離別させた。連れ子2人を立花家に養子に迎えた。(柳川立花藩へ)安武家は立花家と姻戚関係になった。 | ||
1569 | 永禄12 | 大内輝弘の乱。(8-9月) 大内氏遺臣の侵略者毛利家への抵抗、大友家支援の下、山口攻略。 |
大内輝弘: 第14代当主・大内政弘の次男・大内高弘の子。大友宗麟の参謀である吉岡長増の進言により、輝弘に兵を与え周防国山口攻略を謀る。また、尼子の遺臣に武器資金を援助し出雲より毛利方を攻撃。これにより筑前にいた毛利軍主力は撤退を余儀なくされ、大友氏は北九州の毛利方諸城の奪回に成功した。(大友方に川窪掃部助と城井小次郎の名が見える) | ||
1570 | 永禄13 | 安武安房守鎮教は、龍造寺隆信が大友宗麟に降伏する際、これを仲介し隆信に起請文を提出している。 (永野御書キ物抜書) | |||
1570 | 元亀元 | 今山合戦 大友宗麟方が龍造寺隆信に敗退。大友親貞(大友宗麟の弟、大将)、討ち死に。龍造寺隆信、肥前にて勢力拡大。 |
龍造寺軍(約6000人)は、佐賀城を大群で囲んだ大友軍(6万人)を今山の戦いで奇襲攻撃で大将を討ち勝利を得た。その後、龍造寺軍は佐賀より西側の多久、白石(須古城)、武雄方面への攻略を更に推し進める。 | ||
1571 | 元亀2 | 毛利元就死去 | 大友氏の全盛期(元亀元〜天正4)。 毛利元就、元亀2年死去により毛利氏は完全に九州から手を引く。以降、大友氏は九州6カ国(豊後・豊前・筑前・筑後・肥後・肥前)を支配した。 |
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安土・桃山時代 | 1573 | 天正元 | 室町幕府滅亡 (織田信長、将軍足利義昭を追放) | ||
1574 | 天正2 | 肥前・多久の豪族、鶴崎源太左衛門は龍造寺隆信の攻撃を受け山下の柵で敗退、武雄方面に逃走。(女山一揆、2月) | (佐賀県多久市の鶴崎氏) | ||
1574 | 天正2 | 土佐国司・一条兼定(大友義鎮の娘婿)、長宗我部元親より大友家の豊後臼杵に追放される。三老臣により幽閉される。 | 一条兼定(1549〜73)、高知県四万十市の中村城主。 | ||
1574 | 天正2 | 大善寺藤吉村の浄土宗称名院、善導寺18世弁誉により開基。 | |||
1575 | 天正3 | 海津城の安武鎮教は城を追われ大友家を頼り豊後にさる。 (炎の軍扇立花道雪) |
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1576 | 天正4 | 安武政勝(三代)の居城海津城落城。 (龍造寺勢の将である横岳頼次より攻められ落城) |
龍造寺隆信は、横岳頼次を安武城の城主とした。 | ||
1576 | 天正4 | 肥前白石須古城の平井氏、龍造寺隆信により滅亡。 | 肥前大町町福母城主の鶴崎氏(鶴崎弥藤次)は武雄の後藤氏、白石の平井氏に属す。 | ||
1577 | 天正5 | 豊後国鶴崎城主津留崎石見守、戦にて尾島村近くで父子3名討死。その子、大善寺荊津→藤吉に住まう。 | 筑後市尾島の興満寺と久留米市大善寺藤吉に石碑あり。 | ||
1577 | 天正5 | 草野鎮永(家清)、発心城を築城(防御体制の強化、竹井城より移転) | |||
1578 | 天正6 | 高城・耳川の戦い。 大友氏、島津氏に大敗。多くの重臣を失う。(6月) 下蒲池家当主蒲池鑑盛と三男の統安は、討死を遂げた。 |
大友軍は島津軍に壊滅的敗北をした。大友宗麟は命からがら豊後に逃げ大友氏は勢力を失墜。筑後の豪族も大半は龍造寺に属するようになる。下蒲池家の家督を継いだ蒲池鎮並は龍造寺隆信に通じて大友家を見限り離反した。 | 耳川の戦いで大友氏は島津に大敗し、筑後の国人は大友方より離れ龍造寺へつく。 | |
1578 | 天正6 | 龍造寺隆信は2万余人の軍勢をもつて筑後に出兵し大友氏幕下の国人衆を攻める。(11月) | |||
1579 | 天正7 | 久留米の大友の有力家臣、草野家が大友氏に反抗、龍造寺側へつく。安武氏も大友氏から龍造寺方へ転じた。 | 下蒲池(柳川)の蒲池鎮並、草野の草野鑑員、下田の堤貞之、西牟田の西牟田鎮豊、安武・酒見・城島は龍造寺の陣に参じた。 | ||
1579 | 天正7 | 龍造寺軍、大友方の山下城(上蓮池家)を攻撃 | 大友氏に忠義を尽くしす上蒲池(山下)の蒲池鑑広は山下城に立て籠って対戦し他の国人も対抗して戦う。大友氏国人衆の抵抗強く龍造寺隆信は筑前に転進。 | ||
1580 | 天正8 | 龍造寺隆信の嫡子龍造寺政家が、軍勢1万3千人で柳川城(下蒲池)を包囲した。(2月) 攻防は300日続き田尻鑑種の仲介で和平が成立。 |
蒲池鎮並(下蒲池)は、一旦は大友氏から龍造寺氏についたが、龍造寺隆信の残忍性?に疑問を抱き、島津勢に就こうと思っていたようである。 | ||
1580 | 天正8 | 龍造寺隆信、肥前の国(除く現佐賀県の所領)を制圧。 | |||
1581 | 天正9 | 下蒲池家(柳川城)滅亡 | 蒲池鎮並は再び島津家への離反を考えていたが、それを知った龍造寺隆信は激怒。隆信は隠居祝と称して鎮並を招待。佐賀経由で隆信の居城須古城に向かっているとき、龍造寺軍に蒲池鎮並と家老の鎮久が部下173名ともども謀殺された。その後、柳川城は落城。 | ||
1582〜 | 天正10〜11 | 筑後の争乱 | 筑後国の諸将(田尻鑑種・黒木益種・赤星統家など)が、蒲池鎮並を謀殺した龍造寺隆信を怒り、離反をしていく。天正11年1月島津勢も鷹尾城に篭城した田尻氏の支援に着いた。 | ||
1584 | 天正12 |
沖田畷(おきたなわて)の戦いで龍造寺隆信死去。 |
肥前の国島原半島(長崎県)で勃発。龍造寺隆信の死で、九州地区における龍造寺・大友・島津三氏の均衡関係が崩壊。龍造寺氏亡きあとは重臣の鍋島家への政権交代がなされた。 | 島津氏は北上勢力をまし豊後大友氏を攻める。豊臣秀吉に救いを求める。 | |
島津義久は、薩摩より北上し筑後、豊後に進攻。 | 大友氏は豊臣秀吉に救援を依頼。 | ||||
1586 | 天正14 | 立花宗茂(高橋招連の長男)、立花家の名跡を継ぐ。 | 立花道雪(戸次鑑連)は男子がなく、同じ大友家の庶流の高橋招連の息子を自分の娘の婿として迎え養子とした。 | ||
1586 | 天正14 | 豊後鶴崎城攻防戦: 島津勢約3000人が鶴崎城を攻めたが留守を守る吉岡妙林尼が奇策にて退却させた。(大友家文書録「戸次・鶴崎戦争物語」) |
豊臣秀吉の大軍が九州地区に進攻を開始してきた。 | ||
1587 | 天正15 | 豊臣秀吉の九州征伐 (上蒲池・山下城の開城) |
筑後戦国時代(約400年)の蒲池氏勢力の終焉。上蒲池当主蒲池鎮運は、秀吉から三池郡のうち200町を給わり海津館に移り住む。 | ||
1587 | 天正15 | 島津義久、豊臣秀吉の九州攻めを受け降伏するも本領である薩摩・大隈2ヶ国と降りる日向諸県郡は安堵される。 | 豊臣秀吉より大友宗麟は秀吉より豊後1国を安堵される。 | 豊臣秀吉の九州征伐。 | |
1587 | 天正15 | 立花宗茂は、島津征伐の武勇の功により、蒲池氏が落城した後の柳川(河)城主となる。(13万2千石) |
山門・三池・下妻・三潴(大善寺川以南地)の4郡、13万2千石。 (藤吉地区は、立花家の管轄となる。) |
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1588 | 天正16 | 草野家滅亡。 豊臣秀吉の九州征伐に島津家に味方し、降伏。 |
草野永平以来、20余代360年もの間、耳納山麓(久留米市)で権勢を張った草野家は滅亡。 | ||
1592 | 天正20 | 大友義統は、朝鮮出兵(文禄の役)の出陣にあたり、諸侍の津留崎(鶴崎)集従を嫡子義述に命じた。 | この頃まで鶴崎の地は津留崎と言われてのでしょうか。 | ||
1592 | 文禄元 | 文禄の役。 宇喜多秀家を総師とし16万人が朝鮮出兵。 |
慶長の役(1597)を経て、1598年、秀吉死亡により朝鮮より撤兵。 | ||
1593 | 文禄2 | 大友家、改易される。 |
大友義統(大友宗麟の子)、朝鮮出兵の不手際で、秀吉命で改易となる。 | ||
1600 | 慶長5 | 関が原の戦い(徳川家康が天下人になる) | 徳川家康の時代に。 | ||
1600 | 慶長5 | 田中吉政、筑後一国32万5千石を与えられ柳川城に入る。 (立花宗茂の所領没収) |
西軍の石田三成を捕らえた功による。 立花宗茂、関が原の戦いで西軍に味方したゆえ没収。、 |
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江戸時代 | 1603 | 慶長8 | 江戸幕府を開設。 | 徳川家康、征夷大将軍の任じられる。 | |
1606 | 慶長11 | 立花宗茂、陸奥国棚倉にて1万石の大名となる。 | 立花宗茂、柳川の所領没収され流浪したが、徳川家に取り上げられ、陸奥国棚倉(現在の福島県棚倉町)にて1万石の大名に返り咲く。後に3万5千石に加増。大阪の陣の従軍。 | ||
1615 | 元和元 | 大阪夏の陣(豊臣氏滅亡) | |||
1620 | 元和6 | 筑後、柳川城主32万石の田中家が絶家(無嗣子)。 | 田中氏の所領は、筑後北部中部は久留米藩(21万石)、筑後南は、柳川藩(10万9千石)と三池藩(1万石)に分割される。 この時、三潴地区は久留米藩(有馬氏)、矢部川上流地域は柳川藩(立花氏)とする事で両者合意している。 (大善寺・藤吉・荊津地区は久留米藩に所属) |
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1620 | 元和6 | 有馬豊氏、久留米藩21万石を得て入部。 | 有馬氏は、丹波国福知山藩(8万石)の大名で大阪の陣の功績で加増され久留米藩を任された。 | ||
1621 | 元和7 | 立花宗茂、再び柳川城主となり、柳川藩10万9千石を与えられる。 |
大阪の役での戦功による。 |