本ホームページの掲示板の書き込み、フェースブックでも、下記情報を頂きました。
@久留米の津留崎A様: 先祖は大分の鶴崎に住んでいたが戦いに負け福岡に住んだ。先祖の墓に豊後国鶴崎城の城主と何故か記載されている。
A久留米大善寺の津留崎B様: 先祖は大友氏の家臣。
B埼玉県の津留崎C様 : 昔、祖母から先祖は大分の出と聞いた。
B柳川の鶴崎D様:  先祖は津留崎名であったようだ。柳川藩の家来。立花宗茂(柳川藩初代藩主)の家来。
C久留米大善寺出身の津留崎E様:
ご先祖様は大友宗麟の家来だった鶴崎城主津留崎石見守鎮義の家来だったという話を聞きました。 城主の子孫の方はご近所さんです。以前投稿されていた方かもしれませんね。戦により大分から大善寺に来て、城主は戦死しましたが、その子孫が商人となって大善寺に住み着いたというような話も聞きました。
D久留米大善寺の津留崎F様 : 
我が家の先祖は、恐らく江戸時代、久留米市大善寺町あたりで石屋さんを営んでいたそうです。かなりの店構えだったそうで使用人もいて、タニマチだったのか力士の出入りもあったそうです。そのせいか立派なお墓(といってもかなり年代物)が、大善寺にある藤吉天満宮の裏手の田んぼの中にあります。家紋は「並び瓶子(へいし)」の一つのようです。
E久留米藤吉にお住まいの津留崎G様の最近の情報(2012/10):
藤吉地区の津留崎家本家が、大分県の鶴崎へ行き先祖参りを行っていたことを、本家の老人(15年ほど前に死亡)から聞いた事があります。本家は10件ほどで戦前まで行われていたようです。また改姓については中学校の社会の先生からいきさつを聞いた事があります。曰く、大友の家来であり、大友滅亡後敵対勢力の範囲外の場所(藤吉地区周辺)に居着き、鶴崎のままではまずいので津留崎に変えた。また別系統の津留崎もともと居た。という事でした。何分双方とも40年くらい前に聞いた事ですので、不確かな情報ですが、参考になればと思い連絡しました。

F津留アH様の投稿。(なまえさあち)
私は17代前からの津留ア家家系図を持っています。しかし親の遺言で外部には出すなと言われ、一人で時々、見ています。大友宗麟義鎮の義鎮をもらって鎮義と津留ア石見守鎮義という大分県鶴崎城主でした。しかし、島津に攻められ、落城し福岡県久留米に逃げ途中、鶴崎を津留崎に変えその末裔が久留米に70軒くらいあります。正室筋が津留ア、側室側が津留崎を使って毎年先祖祭りをしています。廃藩置県の散らばりました。福島県郡山に開拓に入り、今でも久留米と郡山は姉妹都市です。
津留崎さんの研究
2009年5月に佐賀のお墓参りの折、再度、藤吉天満宮を訪れました。その際、同姓の津留崎さんから境内から北方約50Mの所に津留崎様の本家のお墓があることを教えて頂きそこまでご案内頂きました。
碑では、先祖は、どうも「橘姓」から豊後鶴崎(津留崎)の領地をえたゆえ「津留崎姓」に変えたと記載されているようです。
お墓の管理の方にはご了解は頂いてませんが、僭越ながらその文書とお墓の写真を撮らせて頂きましたのでご了承ください。

後の調査で、石見守橘鎮義はもと発心城主草野鎮永の身内で、大友家幕下に属し、姓を橘→鶴ア→津留崎に変えたそうである。
津留崎氏
丸に並び瓶子(ヘイシ)?
瓶子は、古くから酒を神に供える時に使用していたので神社関係者が用いた。
 姓氏家系大辞典(角川書店)で鶴崎姓を調べていましたら「筑後の名族。将士軍談に宮本村庄屋鶴崎氏が見える。」と記載されておりました。また、筑後将士軍談(矢野一貞著)には 「荊津村館跡。大善寺友鳳和尚云ふ、宮本村庄屋鶴崎氏云ふ、我が祖荊津伊賀守の館跡は、藤吉村幸市と云ふ者の宅の邊に観音堂あり。則ち其の所也と。この鶴崎氏、則ち荊津入道の遠孫か、尋ぬべし」と。
 それゆえ、それを頼りに久留米市の藤吉・荊津(おどろつ)周辺を散策、藤吉天満宮(若宮八幡宮)を見つけました。びっくりした事にこの神社には津留崎の寄進者の名前が沢山書かれておりますが、鶴崎姓が見当たりません。また創建者の藤吉姓もありません。それゆえ、何かの「津留崎姓」と「鶴崎姓」関係があるのではないかと興味をいだきました。
このホームページで全国の津留崎さんに呼びかけました。 
  
津留崎岩見守の慰霊碑 
文字拡大写真
津留崎さんは元鶴崎姓?
津留崎氏碑
(浅山)小次郎塚ノ南一丈計二アリ、近歳其後胤三潴郡夜明村住下見役津留崎某碑ヲ立ツ、其銘云、曾源院殿義灌祐甫大居士、天正五丑年十一月十六日、豊後國鶴崎之城主津留崎岩見守鎭義 
   開基帳、夜明印鎰宮件云、古ハ正月十日ノ祭禮、安武安房守家来、津留崎岩見守代官トシテ社參、供物ヲ備ラル、云々
 筑後市南部の尾島、国道209号線沿いにあるお寺。
 真宗大谷派、同寺は下妻常用村に天文8年(1539年)良膳が創建した一小庵であったが、延宝元年(1673年)に大洪水で堤防が破壊され、延宝2年の尾島の町作りの際、現在地に移転建立された。
 現在、共同納骨堂がある所が二の塚跡で、塚は現在消滅している。
 境内に浅山小次郎重綱(連化師)と津留崎石見守の墓が並んでいる。
浅山小次郎は、今川貞世(了俊)に従って西下した大将・連歌師で、天授2年(1376)南北軍が戦った時に、この地で戦死している。

 この近辺は、最初豊後大友家の勢力化にありましたが、天正時代になり肥前の龍造寺家と南から薩摩の島津家との抗争の場所となっています。
 (多分、龍造寺家晴が、鶴田に陣を置き、大友幕下山下城主蒲池鎮広を攻撃した時、豊後より応援に来て、この地で戦死したのでは?)
 この碑文には、久留米で勢力をもった発心城主の草野家や近くの安武城主阿波守(海津城主 安武鑑教)の記載があります。
 天正5年(1577)父子3名、尾島村で討死、同村の幸(興)満寺の境内お墓(津留崎岩見守)がある。その子、浪人となり当初荊津村に住み後に藤吉村に移り住んだとの記載あり。

  (尾島村近辺で亡くなり、何故、荊津村に住むようになったのでしょうか?、昔から土地勘があり、親戚でも頼ったのでしょうか?)
海津城の城主安武鎮教は、天正三年(1575)、城を追われて大友家を頼り豊後に去ったのこと。天正四年に海津城は、龍造寺方の横岳頼次の手にわたっている。その後、安武民部大輔家教(前の名 山城守)が天正7年にあらわれ、天正9年に海津城に安武豊前守鎮家がいた。
久留米大善寺地区中世歴史年表
久留米大善寺地区の情報へ
筑後市尾島の興満寺
興満寺の津留崎石見守のお墓
津留崎姓の全国マップ
右側の石碑(津留崎石見守)
左側は、浅川小次郎重綱塚
津留崎姓の方は全国で328世帯、うち九州地区で242世帯(73%)が住まわれています。特に久留米市で142世帯で全国の43%を占め、この大善寺地区に集中しておられ非常にめずらしいのではないかと思います。
皆さんが、福岡の久留米出身と言っても過言ではないと思います。
安武氏
剣梅鉢
菅原氏流高辻家分流
夜明印鎰宮とは、今の大善寺にある夜明神社です。この開基帳では、津留崎岩見守は安武安房守の家来で、代官として正月に神社に供物を持参していたと書かれているようです。
★筑後将士軍談にみる荊津村館跡(久留米市教育委員会H14編・歴史散歩
 荊津(オドロツ)村館跡については、矢野一貞は詳しくは記してないが、荊津伊賀守の館跡と伝えられ、館は藤吉村の幸市なる人物の居宅に近い観音堂付近にあったようだ。また、「鶴崎」姓(現在は津留崎)を名乗る人の祖先にあたると記してある。
海津城跡
今去三百年余前 我祖先石見守橘鎮義者素發心草野右衛門部内也
豊後大友氏幕下而領豊後鶴ア依性改津留ア也 其後経六拾年大友
家衰微失権天正比薩州之島津肥前之龍造寺等争奪九州於比石見守
安武城主使阿波守為遊客折節兵乱之砌故成助中 天正五年十一月十
六日父子三名討死於下妻郡尾嶋村其墓同村幸満寺存境内夫依来子治
兵衛為浪人住荊津村其後引越藤吉村務主室也大略記
  明治四十四年八月建之
      津留ア幸次郎           弟 又次郎
          建立者           長男 寅太郎 
                         三男 三郎
★筑後国史: 筑後将士軍談 校訂(矢野一貞撰)の第49巻、墳墓碑塔(下妻郡)の中に、尾島町古墳・浅山小次郎室の塚に 加え、上記の「津留崎氏碑」の記載がありました。
碑文 天正5年(1577年)
曾源院殿義灌祐甫大居士
「豊後國ア之城主津留嵜石見守鎭義」
(豊後国鶴崎城主津留崎石見守鎭義)
北海道
岩手県
茨城県
栃木県
埼玉県
千葉県
東京都 19
神奈川県 22
福井県
山梨県
静岡県
愛知県
大阪府
兵庫県
奈良県
広島県
山口県
福岡県 212
佐賀県
長崎県
熊本県
大分県
宮崎県
鹿児島県
沖縄県
県別 津留崎姓一覧表
    世帯数  328世帯
   (平成11年度電話帳データ)
北九州市門司区
北九州市戸畑区
北九州市小倉南区
北九州市八幡西区
福岡市東区
福岡市博多区
福岡市中央区
福岡市南区
福岡市西区
福岡市城南区
福岡市早良区
大牟田市
久留米市 142
柳川市
筑後市
大川市
小郡市
春日市
大野城市
古賀市
筑紫郡那珂川町
槽屋郡新宮町
宗像郡津屋崎町 現・久留米市
浮羽郡吉井町 現・うきは市
浮羽郡田主丸町 現・久留米市
三井郡北野町 現・久留米市
三潴郡城島町 現・久留米市
三潴郡三潴町 現・久留米市
八女郡広川町
山門郡瀬高町 現・みやま市
(福岡県・合計) 212
福岡県の分布
福岡県では
海津城と安武氏   [ 鑑教/鑑政(荊右京大夫)→鎮政→政勝→ ]
 海津城は、安武古町の西側に隣接し、南は筑後川の旧河道に接していた。河内国生まれの茨木重政が永正5年(1508)に安武村にきて海津城を築き、三潴郡内15ヶ村を支配下において名を安武安房守鑑教と改めたとする説あり。城は平城で、本丸(東西27間、南北26間)・二の丸(東西30間、南北20間)・三の丸(東西26間、南北16間)で、当時堅城を誇ったとのことですが、現在その後の水田開発等にて削られ遺構をとどめてはいない。大友の一族の娘を室に向かえ、大友義の一字を賜り近郊に勢力を有していたといわれる。永禄7年(1564)、大友に従い下田城攻略に参陣、また永禄12年(1569)には龍造寺攻めで肥前に出兵した。天正4年(1576)、3代政勝の時に、横岳頼次の率いる軍勢に攻められ落城、龍造寺隆信は安武城(海津城)の城主を横岳頼次とした。その後安武城主は流浪したともいわれている。天正15年(1587)、秀吉の九州平定後は柳川城主立花宗茂の所領となりその後慶長年間に廃城となった。

★安武氏は、菅原道真の子孫、菅原氏流高辻家から分かれたなっている。系図によると姓を、「高辻」→「菅」→「荊(いばら)」→「安武」と変えていった。
荊津(オドロツ)と安武の地は、ほんの隣同士の場所、安武氏は「」いう字を使っていたことから、先祖は何か関係があったかも知れません。因みに、永正5年(1508)に安武鑑教が海津城に入部する前は、姓は菅原といい、大阪の河内国(大掛部)の荊荘を領していたようです。父の名前は荊越前守周長。全く偶然でしょうか?
★「歴代鎮西志要略」には、延徳3年(1491)に安武の名前が登場しており、上記、茨木重政が海津城に入部する前から、この地域で安武氏を名乗る武将が存在していたと考えられる。蒲池親久の子、親則が別名、安武右京亮と称していた系図もあり。
 
偶然でもう3つ。
@荊津の「津」は、港とのこと、この付近は平家の時代、日宋貿易が盛んでその港の拠点でもありました。
A源久直(後に蒲池久直、初代)は、平忠盛以来、平家が支配した日宋貿易の拠点であった肥前国神崎におり、後の壇ノ浦の戦いでの功績を認められ、建久元年(1190)に筑後三潴郡の地頭職になった。同郡蒲池に土着し、地名の蒲池を苗字としました。日宋貿易で共通点があります。
B荊の名、当時日宋貿易では、「揚州の金(こがね)・州の珠(たま)・呉郡(ごきん)の綾・蜀江(しょっこう)の錦」が貴重品とさてていました。荊州の「荊」は偶然でしょうか?
C安武氏の系図で、河内国荊荘を領しそこ出身と記してある記事がありますが、この「荊荘」が見つかりません。もしかして、安武氏が久留米の荊津の地を領してからこの地の名前を取ったとも考えられます。??

柳川藩(立花家)との関係は
★安武氏、天正4年(1576)海津城の落城後、その一族の名前が、龍造寺家・鍋島家/立花家の旗下として名前が散見される。また、安武鑑教の離別した妻(仁志姫)が立花(戸次)道雪の継室となり姻戚関係となった。立花道雪に引き取られた子供たちが、江戸時代、柳川立花藩に仕え、安武氏を後世に残したようである。離別された理由は、仁志姫の父は門註所鎮連の娘(?)で、安武氏が大友氏に叛き龍造寺側に一時ついた事によると見られる。
★立花宗茂は、九州の島津征伐が終わった後、1587年(天正15)豊臣秀吉からその武勇を賞されて、蒲池氏が落城後の柳河(川)の柳河藩の城主になった。三潴(大善寺川以南)・山門・三池・下妻の4郡、約12万2千石。1600年(慶長5)の関が原の戦で西軍に味方し破れ、、奥州棚倉(現福島県棚倉町)に左遷され棚倉城主となる(1万石)、その後、1620年(元和6)に大阪の陣で徳川家に加わり手柄をたて再び、柳河城主に返り咲いています。(筑後国南部11万石)。
 安武茂庵も立花宗茂が棚倉に移った時、同行しその地では東茂庵と改姓していたようである。その後柳河に宗茂と共に柳河に戻っています。現柳川市に茂庵町の地名で残っています。

 
久留米地区の津留崎・鶴崎さんの先祖で、柳河藩の立花家や安武家の家来になった方もおられるのではないでしょうか?。
 現福島県の棚倉町に鶴崎という地名が残っています、その由来は?これも偶然でしょうか。

★柳川藩の家臣のリストで、@津留崎左門(百石)寛永6年侍帳・定御供衆、A崎嶋之助(15人)立花壱岐守組・有馬一揆旧記、B津留崎嶋之助(花押)同断 が記載されていました。
*津留崎石見守の石碑は、興満寺の一角にあり、金網で囲ってあり道路からみることが出来ます。
  お寺の方にお聞きしたら案内して頂き、鍵を明け中まで入れて頂きました。
*豊後(現在の大分県)の鶴崎城の情報はこちらをご覧下さい。
安武氏
丸に梅鉢
筑後・菅原氏族
安武氏家紋について
姓氏家系歴史伝説大辞典(勉誠出版)によると、安武氏の家紋は、剣梅鉢、丸に梅鉢に加え丸に実梅鉢、亀甲に三つ菱、亀甲に鳶があるようです。
因みに「丸に梅鉢」は、当HP管理人の鶴崎と同じです。
丸に梅鉢 
雪輪に梅鉢
丸に並び瓶子 
室町時代に、安武氏と関係深く、安武氏の居城「海津城」の情報は下記の通りです。  
津留の地名
「津留崎」という地名は、見当りませんが、「津留」という地名は、熊本県、大分県に見受けられます。
熊本県山鹿市津留 熊本県阿蘇郡高森町津留
熊本県玉名市津留 熊本県下益城郡美里町津留
熊本県上益城郡山都町津留 熊本県阿蘇郡高森町高森津留
熊本県菊池郡菊陽町久保田津留
大分県大分市津留 大分市速見郡日出町豊岡津留
大分県佐伯市蒲江大字蒲江浦長津留 大分県中津市耶馬渓町大字大島杉畑津留
大分県臼杵市諏訪津留
福岡県行橋市津留
佐賀県佐賀市鍋島町大字蛎久津留
三重県多気郡多気町津留
丸に剣花菱