C報恩寺 佐賀県杵島郡大町町大町。 建長元年(1249)、栄尊55歳。「謁報恩寺拝開山和尚偈?引」(報恩寺所蔵)によると、寺の報恩のいわれは母岩松氏(「年譜」では母の姓は藤吉)に報いるために建立となっている。また同書によると栄尊が中国の徑山から帰国する際、筑前の鐘ヶ崎でなく大町の太根町に着岸した事になっている。報恩寺と有明海交通の関係がわかる。 栄尊は、宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の金堂造立等に関わったのち、宇佐の神領であった大町荘に報恩寺を建てた。報恩寺確立のための経済的支援を大町荘が行っていた思われる。 |
平康頼(たいらのやすより) 久安2年(1146)?〜承久2年(1220) |
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@万寿寺 佐賀市大和町川上(水上)。水上山興聖万寿寺。臨済宗。通称お不動さん。 仁治元年(1240)神子栄尊が開山した寺で、四条天皇から「水上山興聖万寿寺」という寺名をもらったといわれる臨済宗の寺である。本尊は神子栄尊作と伝えられる不動明王である。「神子禅師年譜」によれば和尚は平康頼と筑後国三潴庄の住人藤吉種継の娘千代との間で生まれ41歳のとき宋(中国)に渡って修業し水上山に来た時が46歳の時といわれる。臨済宗東福寺を開山した聖一国師は当山第二世で、高城寺の開山円鑑禅師は当山第三世である。永正14年(1517)六十四世天享和尚は竜造寺隆信の曽祖父家兼の弟で、後柏原天皇により勅願寺の論旨を賜り勅願第一世となった。九世是琢和尚は佐賀藩祖鍋島直茂のお側役として文禄の役に従軍している。 享保19年(1173)の記録では鍋島家寄進寺領四十石余、山林三町余(約3ヘクタール)で寺域東西十町(約1KM)南北十五町(約1.6KM)内に伽藍が立ち並んでいた。塔頭八、末寺八十三で、鍋島家の祈願寺として格式高い寺であった。現堂宇は明治五年の火災後再建されたものである。 参照:大和町史 |
神子栄尊 建久六年(1195)〜文永九年(1272) 禅僧。臨済宗佐賀郡水上山万寿寺開山。筑後三潴荘夜明村(現在の久留米市大善寺夜明)に生まれ、7歳の時、筑後国柳坂の永勝寺にいた厳琳僧都(栄西の弟子)に従い。その後、肥前国小城郡小松山(現、小城町晴気あたり)で佛道を修業。嘉禎元年(1235)、41歳にして聖一国師と共に入宋し仏鑑禅師に学び嘉禎四年(1238)で帰朝。 仁治元年(1240)肥前国万寿寺を開き、寛元元年(1243)に円通寺、寛元3〜4(1245-46)に筑後国朝日寺を整備、その後宇佐神宮の神宮寺である弥勒寺の金堂造立等に関わったのち、建長元年(1249)に肥前国大町町に報恩寺を建てた。神子栄尊は、他に筑前の薦福寺、豊前の安楽寺を開山。 鎌倉時代の豊前国の禅宗は、宇佐神宮の結びつきで広がっていった。豊前の円通寺は宇佐大宮司・宇佐公仲が神旨を得て七堂伽藍を造営、円通広利禅寺と称し、宇佐宮の北方約500M行った直線道路(円通寺通り)の突き当りに位置する。その後、建長5年(1253)に宇佐宮荘園の本家・二条良実に大乗戒を説き、良実は神子栄尊に弟子の礼をとっている。 宇佐神宮の霊験により、神子と称し、晩年、別号を立てる事を朝廷に申し入れたが、朝廷が霊験を尊び別号を認めなかった。78歳で没。 |
初めに: 鶴崎姓の由来を調査してましたら、姓氏家系大辞典(角川書店)に「筑後の名族。将士軍談に宮本村庄屋 鶴崎氏が見える」。また、筑後将士軍談に「荊津(おどろつ) 村館跡。大善寺友鳳和尚云ふ、宮本村庄屋鶴崎氏云ふ、我が祖荊津伊賀守の館跡は、藤吉村幸市と云ふ者の宅の邊に観音堂あり。則ち其の所也と。 この鶴崎氏、則ち荊津入道の遠孫か、尋ぬべし」と書いてあり、久留米市大善寺町を訪れました。 大善寺町藤吉にある神社仏閣を調べているうちに、藤吉種綱が建てた藤吉天満宮があり、近くには津留崎(もと鶴崎姓)さんが今でも多くお住まいです。更にすぐそばにある朝日寺を開いたのが禅僧「神子栄尊和尚」で、藤吉種継娘の子とされています。、その神子栄尊が我が故郷、佐賀県大町町に報恩寺を建てておりその偶然に興味を抱きました。また、その頃(平安〜鎌倉期)、有明海/日宋貿易を通じて久留米地区と大町町とが人の交流(両・鶴崎さんも)があったのではないのだろうかと考えました。 また神子栄尊は、鹿ケ谷の陰謀を企て平家転覆を計った平康頼と久留米の藤吉種継の娘の間に生まれたとの伝説が残っていますが、一方、久留米に残る安徳天皇生存説では神子栄尊が安徳天皇と大善寺の藤吉(原)種継の娘との間に生まれた子であるとの伝説も残っています。そのどちらが正しいのか興味が湧きました。安徳天皇が藤吉村近辺に生きていた事になれば、我が鶴崎/津留崎の先祖と思われる荊津(おどろつ)氏もそばにいた事になります。 神子栄尊和尚の父がどちらなのか、久留米に残る資料等を参考に安徳天皇生存説を見ていきたいと思います。 |
B朝日寺 久留米市大善寺町夜明。臨済宗妙心寺派。夜明山。本尊は地蔵菩薩。寛元三年(1245)神子栄尊が創建。栄尊は平康頼とこの地の娘との間に生まれた子で、生誕後藪の中に捨てられたのを異相ありとて村人が拾いあげたという。長じて円爾弁円と共に渡宋、無準に学んだ。栄尊より三世にしてその法統は絶えたが、元禄年中(1688〜1703)虎溪が中興して妙心寺派となった。寛元二年(1304)作の神子栄尊像(県指定重要文化財)あり。 参照:日本名刹大辞典(雄山閣出版) 寺伝によると寛文10年(1760)頃に梅林寺の虎渓宗乙が中興し妙心派となり、末寺九ヶ所・塔頭五院を有していたというが、近世の末寺は日輪寺(京町)のみが知られている。 参照:日本歴史地名辞典(平凡社) |
鎌倉時代、藤吉氏と荊津(オドロツ)氏は共に現地の御家人で隣どうしと思われます。この荊津氏は鶴崎/津留崎氏の先祖に当たるのではないかと言われています。 |
安徳天皇(治承2(1178)〜寿永4(1185)) |
父は高倉天皇、母は平清盛の娘の徳子(後の建礼門院)。第81代天皇。治承4年数え年3歳(満1歳4ヶ月)で即位するが、幼年のため実権はなく政治は清盛が取り仕切った。満1歳4ヶ月)で即位するが、幼年のため実権はなく政治は清盛が取り仕切った。即位の年に清盛の主導で遷都が計画され、福原行幸(現在の神戸市)が行なわれるが、半年ほどで京都に還幸した。寿永2年(1183)、源義仲入京に伴い、三種の神器とともに都落ちする。平家一門に連れられ太宰府を経て屋島行き、行宮を置いた。しかし源頼朝が派遣した鎌倉源氏軍によって、平氏が屋島の戦いに敗れると海上へ逃れる。そして寿永4年(1185)、最期の決戦である壇ノ浦の戦いで平氏と源氏が激突。平氏軍は敗北し、一門は滅亡に至る。安徳天皇は、最期を覚悟して神璽と宝剣を身につけた祖母・二位尼(平時子)に抱き上げられ、壇ノ浦の急流に身を投じた。安徳天皇は、数え年8歳(満6歳4ヶ月)で崩御した。 |
久留米・鳥栖の民話 (神子栄尊に関係するもの。一部) | |
1.神子栄尊が平康頼の子とした民話・伝説 | |
朝日寺(大善寺) 七百三十年ばっかり前の話ぢゃが、大善寺んにき、三池長者ち言わるる藤吉種継に一人娘がおったげな。とても信心深うして念仏三味に明け暮れち嫁御にどん行く気は、全然なかったところ、鬼界が島から都さん帰りよった平の康頼が一晩泊ったら、好きになってしもうて、仲良うなったげな。そして朝日ば呑み込うだ夢見て腹ん太うなったげな。そん生れち来た子が、永勝寺の元琳和尚さんに育てられて、名僧、高僧ち言はるる神子栄尊和尚さんげな。栄尊和尚さんな、自分なお母さんが朝日ば呑込うだ夢で生れち来たけんち、お寺ば建てち朝日寺ち言う名ばつけらしゃったち言う話。 |
神子栄尊は平康頼と藤吉種継の娘との間生まれた子 |
不毛霊地(大善寺夜明) 三池長者の藤原種継の一人娘が平家転覆ば謀うだ平の康頼の子ば産んだもんぢゃい、平家の御咎ばえすがって、産み落すとすぐ野原に捨子した。ところが鳥からつつかるるぢゃなし、犬狼から喰わるるぢゃなし、口から光は出して、泣きもせんな七日七夜元気にしとった。そして夢の告げで、探しに来た柳坂ん永勝寺の和尚さんに拾われた。不思議なこつに捨て子された場所にゃそりから草も生えんし、牛でんよりつかんごつなったけ、不毛霊地の石碑ば建てて記念にした。捨子は後の神子栄尊和尚さんだい。 |
神子栄尊は平康頼と藤原(吉)種継の娘との間生まれた子 |
三池長者(大善寺) 昔、大善寺の近くに皆から三池長者と言われる大金持の藤吉種継が居りました。種継には天女の様な可愛い一人娘が居りました。その美しさが評判で遠い国からまで嫁に欲しいとの申込が引きもきらずありましたが、娘はとんと気にもかけず、たゞ仏を念じて毎日をすごしていました。しかしその美しいとの噂は遂々京にまで聞えて御所からすぐ嫁に差し出すようにとの命令が来ました。種継は名誉な事ではありますが、一人娘と遠く別れて暮すことはとても淋しくて出来ませんので一計を案じて迎えの使者を騙すことにしました。ツナシと言う魚を焼く時の臭いが死人を焼く時の臭いと同じなのを知っていた種継は、御使者の到着する日、ツナシを牛車三台分も屋敷に持ちこんで焼き立て、煙を近郷近在にまで煽り立てました。御使者はこの煙の臭いのに驚き、且つ泣き悲しんでいる長者に、そのわけを尋ねました。長者は涙ながらに娘が亡くなったので今火葬にしているところですと答えて猶も泣きました。使者は不浄の家に永く停まることではないので、「気の毒なことだ」と言って都へ帰って行きました。長者は御使者を送り出すと大安心とばかり喜び、大きな声で「立ち出て池の辺りを眺むれば我が子の代にツナシ焼くらむ」と歌いました。この事があって、ツナシと言う小魚をこの附近ではコノシロと呼ぶようになったそうです。 その翌年の夏のある日、長者を頼って平の康頼と言う武土がやって来ました。この康頼と言う武士は、余り平の清盛が悪い事をするので、平家を滅ぼそうと謀ってかえって平家に捕えられ鬼が住むと言う鬼界が島に流された者の一人で、やっとその罪を許されて京へ帰る途中でした。永い小島の生活で、やつれてはいましたがもともと京育ちの貴公子ですから、とても上品な感じでした。娘は康頼を一目見て好きになりました。康頼も又、娘を可愛く思いました。娘はその晩朝日を飲みこんだ、楽しい楽しい夢を見ました。一夜明ければもう悲しい別れが二人には待っていました。京から康頼を迎えに来たのです。康頼は娘の身の上を心配しながら京へ帰って行きました。娘は後を追って行くことも出来ず、毎日毎日泣いて暮らしました。それからちょうど十月(トツキ)目の初夏、娘は玉のような男の子を産みました。たった一夜の契で身ごもっていたのです。不思議な事に赤子は口から光を出しています。長者は驚くと共に、罪人であった康頼の子とわかったら、娘も自分も平家一門から如何な罰を受けるかわからないと心配して、霰川の岸近くに、この子を捨てました。ところが急に雨が降って来て赤子の体をきれいに洗い清めました。その上不思議なことに犬も喰いつかず、鳥もこずかず、牛馬も踏みたくらず七日七夜さが間子供は元気でした。この捨てられた場所には其後草一本生えなくなったので此処を不毛霊地と言うようになりました。八日目の朝早く、永勝寺の元琳和尚がやって来て捨い上げ「夢の御告げ通り、口から光を出して、法華経を読んでいる。正しくこれぞ口光」と言いますと、光は消えてしまいました。和尚は赤子を衣にくるんで山本町柳坂のお寺へ連れて帰り大切に育てました。この子は利口な子供で七つの時法華経を暗唱し、十三才でお坊さんになると一心に修行を積み、遠く宋にまで留学していよいよ学徳を重ね、帰朝してからは肥前の萬寿寺やこの朝日寺を建立して、九十四才で亡くなられた神子栄尊大和尚てす。 娘は産み落すと、子の顔さえ見ぬまゝに捨子しなけれはならなかった己の宿業を悲しみ、ますます仏法に帰依し法華経を念じて一室にこもりきりになりました。そのうち長者はふとした病が元で明日をも知れぬ命になりました。しかし自分が死んだ後の娘の身の上を案じ、死ぬにも死にきれぬ思いでした。長者は有り余る財宝を或る所に埋めて将来娘が困らない様にと 朝日さす、夕日輝くその下に 七つ並びが七並び 黄金千両朱千両 座頭の杖がつくかつかぬか と其の場所を娘に遺言して、死んでしまいました。この財宝の埋められた所は朝日寺の近くだろうと言われていますが、はっきりしたことはわかりません。 |
神子栄尊は平康頼と藤吉種継の娘(玉江姫または別名千代姫)との間生まれた子 |
2.安徳天皇生存説、神子栄尊が安徳天皇の子とした伝説・民話 | |
下野へ逃れた安徳帝 |
神子栄尊は安徳天皇と藤吉種継の娘との間に生まれた子。 *千代姫=玉江姫 水天宮 |
名剣さん(荒木) 壇の浦から九州に下られて、お家再興ば考えとられた平家の面々も、あんまり源氏の力ん強かもんで、とうとう筑後まで落ちて来られ、せめて安徳天皇だけはお守りしようち久留米の松田何とかち言う地頭の別荘、荒木の白口におかくし申し上げたが、天皇は思うにまかせん世の中ば悲しゅうで二十八才の時此処でお亡(ナ)くなりになった。残っとった僅かな家来の衆と村の者(モン)で手厚う御亡体(オンナキガラ)ば篠山に葬った。そして天皇が肌身離さずお持ちになっとった剣ば御住いの跡に埋めち、名剣大明神ち彫った石碑ばその上に建ててお祀りした。そりから此ん境内で、小鳥ば獲ったり、木ば折しょったりすっと、きまって崇りば受くるごつなった。あっ時椿の咲して目白んようけ来るけ、小供が目白ばとったところが目んつぶれた。又落葉ば腐らかすとは勿体なかち、焚くとにかき集めち持っていった婆さんが、わけんわからん大患いばしたりしたもんぢゃけ。そりからは誰でんそげな二つばせんごつなり、境内や何時も落葉ん積(ツモ)ってジメジメしよった。境内や五百坪ぐれあったが、終戦後ん食糧増産のためとか言うて田んなかになってしもうたけ、もう今はどこぢゃいわからんごつなってしもうた。ばって荒木駅から二、三丁大善寺さんさね行く道のとこに昔ぁ、ちゃんとあって爺ちゃん達の祭ばしござった。 |
安徳天皇は久留米松田という地頭の別荘に隠れて生活を送った。 白鳥神社 名剣大明神 |
水天宮と椿紋の由来(水天宮) 安徳天皇は、御年わずか五歳の生涯をお果てになったと歴史には記述されております。一方で、官女の按察使局に守られて筑後に潜幸されたとの言い伝えが久留米にあります。 平氏の旧臣藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が豪族として筑後におり、娘に玉江(たまえ)姫というまことに美しい娘がおりました。 玉江姫は安徳天皇に仕え、その忍ぶる御座所は筑後川畔の鷺野ヶ原千寿院というお寺で、境内には清水のいげた井桁(*)に寄り添って椿の花が咲き、清水に映えてとても優雅な風情を漂わせておりました。ある日、天皇は、椿の花はいつの世もやさしく愛でて映え、井桁はその愛をとこしえに深く育んでゆくと言われているがいかがなものよ、と玉江姫への想いを秘めて仰せられました。 こうして、安徳天皇と玉江姫の恋物語の由縁から、椿の花が神紋となりました。なお、玉江姫は、天皇の皇子をお産みになられたそうですが、筑後の伝説では、安徳天皇は二十七歳で崩御され、玉江姫はその霊を弔って生涯を終えたとのことでございます。 (※井桁 井戸の上部の縁を木で「井」の字の形に四角に組んだもの。) |
水天宮 安徳天皇の生存説 天皇の皇子が後の神子栄尊。 *藤原種継=藤吉種継 *玉江姫=千代姫 |
A円通寺 宇佐市南宇佐円通寺。臨済宗大徳寺派。霊松山。本尊は観世菩薩。 寛元元年(1243)、神子栄尊が開山。開基は宇佐宮大宮司宇佐公仲。天正年間(1573〜91)大友宗麟の兵火により堂宇をことごとく焼失してしまった。天正15年(1587)領主黒田如水軒孝高が55石を下領して以来、徐々に復興に努めた。往時は独立した本山であったが享保年間(1716〜35)大徳寺派末寺になり中本寺格(末寺三ヶ所)となった。寺宝は、開山神子栄尊御影(頭部のみ)等がある。 参照:古寺名刹辞典(東京堂出版) 天明7年(1787)の「臨済宗本末帳」によると円通寺の末寺として、宇佐郡内に光隆寺・永松寺・戒光院・永福寺・瑞泉寺・堆泉寺・西光寺の7寺が確認できる。 |