[ 戦国初期  明応~永禄年間(1490~1560年代)]
北九州地区は、博多をめぐって大内氏と少弐氏・大友氏が熾烈な攻防戦を繰り広げた。やがて少弐氏・大内氏が家臣に滅ぼされ、この間和戦両様をで臨んだ大友氏(豊後府内城。現大分市)が毛利氏の侵入を防ぎながら九州六ヶ国(豊後・豊前・筑前・筑後・肥前・肥後)を領する大大名になった。
[戦国三大名時代  永禄~天正年間(1560~1580年代)]
九州では、豊後を本国に六ヶ国を領した大友義鎮(宗麟)、薩摩を拠点とし南九州三カ国(薩摩・大隈・日向)を制する島津義久、そして肥前佐嘉城を拠点とし勢力を拡大する風雲児・龍造寺隆信の三氏が三つ巴で熾烈な抗争を繰り返した。
[肥前の戦国時代]
 
戦国時代の肥前国は、鎌倉・室町期以来からの有力大名であった少弐氏、千葉氏らが衰退し、代わって龍造寺氏が台頭し、近隣にその勢力を拡大していった。とくに龍造寺隆信は、永禄六年(1565)少弐氏を滅ぼし、元亀元年(1570)には大友氏の攻撃を今山の合戦で撃ち破り、肥前統一に大きく前進した。そして、肥前西部に目を向け、平戸の松浦氏、武雄の後藤氏を牽制するために、実弟龍造寺長信に石井周信、福地信盈らを付して多久城に駐屯させた。
 天正元年(1572)竜造寺軍は松浦地方に侵攻し、草野鎮永・波多親・鶴田勝ら松浦党の面々を降し、多久へ帰陣した。翌年には、武雄城主・後藤貴明、須古城主・平井経治を攻め、天正八年(1580)、肥前国をほぼ制圧した。

 
●後藤貴明(1534-1583): 肥前武雄・塚崎城・城主。
大村純前の男。実子でありながら、1545年に武雄の領主後藤純明のもとに養子に出され、大村家は有馬晴純の息子純忠が継ぐこととなった。跡継ぎ問題もあり貴明は大村領に度々侵攻し、家督簒奪者である純忠を悩ませた。1566年波佐見に侵入し、内海城主・内海政通を萱地ヶ原に敗死させる。一時平戸松浦隆信の息子惟明を養子に迎えたが対立して廃嫡し、のち対大村・有馬氏への関係から龍造寺との連携を深めるため同氏から養子家信を迎立、後藤家とゆう存在はほぼ滅亡してしまう。家信の子孫はのち鍋島姓を称した。
 ●平井経治(?ー1574):肥前・須古高城・城主(現在の白石町
有馬氏家臣。室は有馬晴純の女。平井氏は元々少弐氏の家臣である。島原の有馬氏は島津氏と通じ、また須古の平井氏もまた有馬氏に応じていた。平井経治は勇将でありかつ肥前西南部に勢力を持つ有馬氏をバックにしているという心強さ、難攻不落の須古城を有している事から、永禄6年(1563年)より三回も豪勇の龍造寺隆信と戦い持ち堪えた。そして四度目の戦い(天正二年/1574年)で、ついに滅亡した。
平井一族の残党は、長崎県大村・諫早や平戸方面と逃れて行ったが、この地域に「須古おどり」とよばれる踊りが、昔からおどり継がれて残っている。
そのひとつが、玄界灘の孤島大島村の「須古おどり」である。

天正2年(1574)に、白石地区で勢力を有していた須古城主平井経治が龍造寺隆信との戦で破れ地域の勢力地図が一変しました。
天正2年に記された「肥前豊太守竜造寺隆信公御長男政家公御一家並びに御家中幕下之衆知行附」というのがあり、この記録は当時の杵島郡での郷土所雄の状況を知る上で有力な資料。
1. 杵島郡   山口城主        九拾六町     井元左近允
2. 杵島郡   佐留志城主      弐百町       前田伊予守
3. 杵島郡   大町不動寺城主   六拾町
4. 杵島郡   焼米赤坂城主     六拾七町     焼米壱岐守(断絶)
5.  杵島郡   福母村城主      五拾町     鶴崎弥藤次(断絶)
6. 杵島郡   喜佐ノ木城主     五拾町       喜佐ノ木藤内(断絶)
7. 杵島郡   三法潟大日城主   五拾八町     大日中務(断絶)
8. 杵島郡   馬田城主        六拾町      蓑具遠江守(断絶)
9. 杵島郡   多久花祭城主     六拾五町      花祭某(断絶)
10.杵島郡   成瀬ノ城主       三百町       深町尾張守
11.杵島郡   志久城主        五拾町       加々良上野 ・・・ 後に塚崎後藤の家来
12.杵島郡   河古城主(波多ノ臣) 百町       川原豊前守
13.塚崎    宮野ノ城主        八拾町      宮野中務太夫
14.白石郷   秀村ノ城主       不明       秀伊勢守(断絶)
15.白石郷   六角ノ城主       不明       六角喜左衛門
16.白石郷   福富ノ城主       不明       福富万平
17.白石郷   久治村郷士       不明       久治対馬
                                                (参照:白石町史)
 
大町町福母の鶴崎弥藤次氏は、武雄、塚崎城主である後藤貴明の配下でした。後藤貴明は、佐賀の龍造寺隆信やそれに対する白石須古の平井経治とその時々で手を組んでいるようです。
 天正2年(1574)の段階は、後藤貴明がその養子惟明(これあき)の反逆で、龍造寺隆信の支援を依頼して、難を逃れています。
その際、牛津川以西・横辺田・志久一円を龍造寺隆信の舎弟龍造寺長信へ割譲しています。(8月25日)
 (後藤貴明は、子に恵まれず後継ぎとして平戸松浦氏松浦隆信の三男・惟明を養子として迎えました。正室には、須古城主・平井経治の娘を迎えました。ところが、貴明に実子・晴明が生まれた為、家督相続をめぐり貴明・惟明親子が争う事になり、貴明が敵対関係にあった佐賀の龍造寺に援軍を求め勝利しました(天正2年8月)。降伏した惟明は、実家平戸・松浦氏を頼って平戸へ戻り佐世保に住まいしたとの事です。その後、後藤貴明は龍造寺家から養子・家信を迎え、実質、武雄は龍造寺領となりました。)
 断絶という意味はわかりませんが、推測ですが城持ちでなく、かつ武力を持たない形で、農業等を営んで生活する権利は許されていたものだと思います。
戦国中世の時代、大町町福母の鶴崎氏は武雄の後藤氏の家来であり、特に後藤貴明の時代は、貴明が大友宗麟(豊後)・龍造寺隆信(佐賀)・平井経治(白石・須古)とそれぞれ和平をしたり戦争したりして、活動している。4回にわたる龍造寺隆信の須古攻め(平井家)はすさましく、鶴崎家の一族のことは、永禄7年(1564)に大町町の福母城に鶴崎弥藤次(大町町史)の名前が見られます。
 同時期、天文14年(1545)~天正元年(1573)ごろ多久地区に勢力を持つ鶴崎源太左衛門という豪族がおり、有馬氏と武雄の後藤貴明と手を組み、勢力を増してきた龍造寺家に対抗したことが伺えます。 
福母城主の「鶴崎弥藤次」と多久女山の山下の柵の城主「鶴崎源太左衛門」も隣町で近距離で、両者武雄の後藤貴明との関係もあり親戚関係だったかもしれません。
1545 天文14 (多久崩れ)
天文14年、龍造寺周家は有馬義貞の攻撃を志久村に防ぎ、敗れて多久に帰ったが、山下の柵によって吉野奥村の土豪 鶴崎源太左門尉正明の攻撃を受け、夜に乗じて佐嘉に帰った。これを「多久崩れ」というとある。
1574 天正2 (女山一揆)
元亀・天正のころ、多久西の女山(現西多久)に、鶴崎源太左門尉という者がいて、女山・藤河内(現西多久)、中多久(現多久)、志解(現北多久四下か)、岸河(現北多久町岸川)を領して有馬氏に属し、後藤貴明にも内通、山下の柵(現多久板屋)を守り、龍造寺長信をおびやかしていた。  ・・・・・・・・・・・・・・・・(中略)・・・・・・・・・・・・・・・・
天正二年二月、後藤貴明攻略に、隆信が兵を多久に出し、先陣の下総守信種(直茂の弟、後の女山多久氏)は、山下の柵を破ったので、鶴崎源太左門尉は武雄に逃れた。一説には馬神峠で信種に打たれたとも伝えられる。後に、この戦いを「女山一揆」と称した。鶴崎の所領は龍造寺長信に隷属し、女山多久氏の知行となった。
                                     (参考文献・武雄市史)
白石須古城主・平井氏が龍造寺隆信に敗戦した後の戦後処理
平井経治と龍造寺隆信の戦いに興味のある方はクリックして下さい。
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大町町の歴史(中世)
「大町町の中世歴史」
1
多久(女山)の鶴崎氏
戦国時代にみる大町福母と多久の鶴崎さん
1573 天正元 ①正月元日後藤貴明の兵、再び志久村から多久の辺境をうかがった。
②同年秋九月、後藤貴明は女山(現・船山)の鶴崎源太左エ門と示し合わせて多久を侵し、龍造寺長信の梶峰城(多久)を囲んだ。
しかしこれを落とすことができず、十月鶴崎の守城 山下の塁に帰陣した。
1574 天正2 ①二月、龍造寺隆信は第四回目の須古攻めをしようとして、まず兵を出して女山の一族(鶴崎源太左衛門)を討伐し白丹田に陣した。
後藤貴明兵は猪隈の塁を出て桜木において戦い、須古城主平井経治は兵を久津具に進め、わが軍はさらに大兵を北方竜石に送って龍軍と
対抗し、遂にこれを撃退した。
②六月二十三日、貴明の養子惟明が反逆を企て、武雄における前代未聞の大騒動を惹起した。これがためわが武雄は遂に龍造寺の有に
帰した。(貴明は龍造寺隆信に援軍依頼、和平)
                                                   (参考文献・北方町史)
 西暦  年号    佐賀県・大町福母/白石/武雄/多久  国内状況(関連事項、豊後他)          その他補足
1545 天文14 龍造寺周家(龍造寺隆信の父)は有馬義貞の攻撃を志久村に防ぎ、敗れて多久に帰ったが、山下の柵によって吉野奥村の土豪 鶴崎源太左門尉正明の攻撃を受け、佐嘉に帰った。(多久崩れ)    多久崩れ: 天文13年(1544)多久の梶峰城を守る当主・多久宗時は龍造寺周家に攻められると逃亡し周家が城主となった。翌⒕年(1545)に有馬氏の支援を受けて多久氏が当城に復帰。龍造寺周家を佐賀に追いやる。
武雄の後藤貴明は大村純前の庶子であったが、有馬晴純の子(大村純忠)が大村氏の跡継ぎになるに及び、天文14年(1545)、後藤氏に養子に出された。
1554 天文23 大友義鎮(宗麟)、肥前守護職に補佐される。    
1555 弘治1 肥前の諸蒋が大友氏に対し謀反の兆しを見せた為、大友義鎮は、筑州の諸蒋に肥前に対する備えを命じる。    
1560 永禄3 ①有馬軍、潮見城を攻めて奪う。( 9月)
②後藤貴明、有馬軍を破り潮見城を奪回。
③後藤貴明、須古の平井経治と戦い敗れる。(12月)
④後藤貴明、子がなく平戸城主松浦隆信の次男惟明を養子とする。
織田信長、今川義元を桶狭間にて破る。(5・19)[桶狭間の戦い]    ■後藤貴明、永禄39月、長島庄の旧主一族である渋江公師(貴明の従兄弟)に守らせていた潮見城(武雄市橘町永島)が有馬晴純の軍勢に攻められ奪取されると、貴明は直ちに出陣しこれを奪い返した。
 1561  永禄4 ①後藤貴明、塩田を攻め、領主原山城主直景を降伏させ籾岳城を築城(2月)  
②龍造寺隆信、上佐賀山内の城主神代勝利を破る。(9月)
龍造寺隆信は西進(多久、杵島郡方面へ)、また、有馬仙岳は後藤貴明の潮見城の奪回を企てた。また須古の平井も有馬に属していた。
上杉謙信、武田信玄と川中島で戦う。(9月)[川中島の戦い]    
1562 永禄5 後藤貴明は、密かに豊後の大友宗麟にも通じていた。 大友義鎮、門司城合戦での敗戦もあり、入道して瑞峯宗麟と号す。吉岡長増(宗勧へ)ら重臣数名もこれにならい入道し改名。    
1563 永禄6 ①龍造寺隆信、有馬軍を丹坂峠(小城)破り、又 多久を攻略、後藤貴明と和して、須古平井経治を攻めたが利なし。(6月)
②龍造寺隆信、同年、再び須古城平井を攻め、その際 後藤貴明が先鋒となったが平井経治の守備よく後藤軍の犠牲大。(8月)
   丹坂峠の戦いで有馬家が龍造寺家に敗退、有馬に従っていた多久氏の梶峰城も落城。15代多久宗利は須古の城主平井氏を頼って落ち、これにより前多久氏は滅亡した。梶峰城は龍造寺長信が城主。
1564 永禄7 ①2月、龍造寺隆信、弟長信に命じ、多久城(梶峰城)を出て再び須古の平井を攻める為に福母に進攻。福母は後藤氏の領地でその代官鶴崎弥藤次が福母城山にいたがこれを追い出し、猿通山(現西福寺墓地)に陣し再び攻めたが失敗 。
その後、龍造寺軍と平井軍の講和成立。
後藤貴明と平井経治の攻守同盟。(9月)
平井の使者が「龍造寺が須古を攻めるのは甚だ急、須古を攻略の後、後藤家の攻略の危険ありとの奏上もあり、両者人質交換の後、攻守同盟を結ぶ。さらに、同盟を固めるため平井経治の女を嗣子 後藤惟明の妻室とした。
   
 1568 永禄11 ①龍造寺長信は、多久の梶峰城を小田鎮光に譲ったが、豊後大友氏の圧力が強まると鎮光は大友氏に寝返った為、今山の戦い(1570)で勝利後、梶峰城を追放し再び長信が城主となった。 豊後鶴崎城主吉岡長増、佐嘉城包囲中の大友軍前衛部隊と合流、矢文による攪乱にて竜造寺隆信を降伏させる    
 1569 永禄12 ①大友氏の軍、佐賀北部に陣する。(4月)
②大友・龍造寺両氏和する。
大友宗麟、立花山城下で起こった対毛利戦の多々良浜合戦では、筑後高野山に陣する。(鶴崎城主の吉岡長増も宗麟と共に指揮をとる)    
  1570 元亀元 ①大友八郎親貞、兵を率いて佐賀今山に陣する(8/17)
鍋島信昌(直茂)、夜襲して大友親貞を討つ。(8月)
  
大友軍6万 : 龍造寺軍5000 
 [今山合戦]
 肥前はこれより豊後大友家より龍造寺家の勢力下となっていく。
③龍造寺隆信、小通を蓑具遠江守より奪い、土井重乙等を置き、馬田橋の堅めとした。(8月){大町村史}
④龍造寺隆信・大友宗麟の両氏和する。
①大友宗麟、再び高野山に来陣。
②信長・家康、姉川で浅井・朝倉の 軍を破る。(6/28)
   
  1571 元亀2 ①後藤貴明の兵、志久峠から多久を侵した。(11月) 信長、延暦寺を焼き討ちにする。 ( 9/12 )    
1572 元亀3 ①龍造寺隆信軍を東肥前に進め、筑紫氏を降伏させる。 武田信玄、徳川家康を遠江三方原にて破る。(12/ 22)    
1573 天正元 ①正月元旦、後藤貴明、再び志久村から多久の辺境を窺う。同年9月、女山の鶴崎源太左衛門と示し合わせ多久を侵し龍造寺長信の梶峰城を囲んだ。しかしこれを落とすことができず、10月に鶴崎の守城 山下の塁に帰陣した。
②この頃、龍造寺氏、多久より侵略を防ぐ為、大町不動寺に不動寺出羽守(60町)を配す。
③隆信、波田親を降伏させ、ついて鶴田前を破る。(12月)
①武田信玄、没する。(4/12)
②織田信長、将軍義昭を放遂、室町幕府滅亡。
   
 1574 天正2 ①多久に龍造寺隆信が兵を出し、鶴崎源太左衛門が守る山下の柵を破り敗退。武雄方面に逃走。女山一揆、2月) 隆信は白丹田に陣を敷いた。
②後藤貴明、養子惟明と戦う。  (7月)
後藤貴明は、龍造寺隆信に援を頼み、惟明は降伏、後藤-龍造寺の和平が成立、牛津川以西・横辺田・志久は龍造寺隆信の弟長信の所領となった。(8月)
③龍造寺隆信、須古平井経治を攻め、平井氏滅亡
(杵島郡史)(12月)
①信長、伊勢長島の一向一揆を討つ。(9月)   *女山の一族を討伐した後、龍造寺軍は須古攻めのため白丹田に陣した。武雄・後藤軍と須古・平井経治軍の両軍で、龍造寺軍を撃退した。
*天正2年6月23日、後藤貴明に当時子がなく平戸の松浦氏から養子に迎えていた後藤惟明が反逆を企て、武雄における前代未聞の大騒動が起きた。7月8日、貴明は龍造寺隆信に助けを求める事になった。
(惟明の妻は、須古平井経治の娘)


■龍造寺隆信が、武雄・白石・多久地区を制覇。天正2年、この地区の城主を決め、大町町福母城主(50町)の鶴崎弥藤次は断絶扱いとなった。
1575 天正3 ①後藤貴明、龍造寺隆信に破れ、隆信の子、家信を養子とする。 信長・家康、長篠に武田勝頼を破る。(5月)    武雄の後藤貴明、龍造寺家の傘下に。
●福母村は、戦国の動乱期にはその帰属する所も変転する。建武のころからは後藤家の采地であり一時期は須古平井の統治下のもあったが、龍造寺長信が多久を領する天正3年より多久領となる。
1576 天正4 ①龍造寺隆信、須古に築城して居城とする。
②龍造寺隆信、藤津で有馬氏を討つ。
信長、安土城を築く。
(久留米)海津城城主安武鎮教、龍造寺方の横岳頼次により攻略される。
   
1577 天正5 (久留米)豊後大友氏の幕下、豊後国鶴崎城城主津留崎岩見守死去の墓あり。    津留崎氏は、もと鶴崎姓で後に名前を替えた。
1578 天正6 ①耳川の戦いで、大友宗麟、島津家久軍に敗退、多くの重臣を失う。鶴崎城城主の吉岡鑑興は、日高高城合戦で戦死。    
1580 天正8 ①龍造寺隆信、肥前の国を制圧。    
1586 天正14 鶴崎城攻防戦:薩摩勢約3000人が鶴崎城を攻めたが留守を守る妙林尼が奇策にて退却させた。    
           (参照)大町町史、北方町史他 )
周辺地図と女山一揆の詳細へリンク