白石町史 | 大町町史 |
第1回須古攻め 永禄六年(1563)7月、まず龍造寺隆信は福母の北小山に陣して、その南の六角川にそって諸勢を備えた。一方、須古の主将平井経治は佐嘉勢が攻めよせると聞くや一族の川津経忠、平井刑部大輔、本田純秀、本田純親、白石純通らをつかわし福母の大橋口で防戦させた。戦いは白兵戦となり竜造寺軍は平井勢の猛攻にあって引き退いたが、この虚を大友方が突いて来る注進もあって龍造寺隆信は佐嘉城に引き上げてしまった。 |
第1回須古攻め 永禄六年(1563)夏、有馬仙岩は千葉龍造寺を討つため須古の平井に命じ福母に陣を進め、砥川村由利岳へ侵攻するが、龍造寺隆信の軍に破れ、多久へ敗走し更に須古へ帰る。 隆信はこれを追い大町村より福母猿通山に陣をしく。鍋島直茂は小通に砦を設け、須古の平井を攻めたが戦況は不利であったので須古攻めは中止して佐賀に引き上げる。 |
第2回須古攻め 翌、永禄7年(1564)、龍造寺隆信は再び兵6千余を率いて出馬した。平井経治はこれを迎え討とうとして福母村の他、能万寺に伏兵を置いたが、この度は龍造寺軍に切りまくられて須古の高城に退いた。竜造寺軍は高城まで押し寄せてきたが深入りを避けて福母まで退き、やがて両軍の間に講和が結ばれ、経治の弟直秀を龍造寺隆信の女婿とし、高城の大構枳殻土手(げずがらどて){現在の須古小学校東南より南西にのびた防塁があった}を壊す事に決めた。隆信は女子がなかったので、一族親純の娘を養女として平井直秀に送ったという、まさに政略結婚である。 |
第2回須古攻め 翌、永禄7年(1564)、龍造寺隆信は再び須古の平井を攻めるため大町から福母に侵攻する。福母は後藤氏の領地でその代官鶴崎弥藤次が福母城山にいたがこれを追い出し、陣を猿通山へ布くため兵を進める時、能満寺(福母八幡の境内に在った)の藪から平井の伏兵が現れ龍造寺隆信の軍に襲いかかっている。このため能満寺は焼き払われたと伝えられている。この時の須古攻めも成功せず佐賀に引き上げている。 |
今山の戦い(元亀元年1570)にて大友軍大敗。 大友宗麟軍が佐嘉賀城(龍造寺隆信)総攻撃の体制。筑後川と牛津川で囲まれ佐賀平野をぐるっと包囲した形でで大友軍が陣した。大友宗麟軍、約6万人に対し、龍造寺隆信軍は5000人で、龍造寺軍は援軍の見込みは皆無、まさに四面楚歌の状況であった。 今山に陣していた大将・大友親貞3000の本陣は、圧倒的優位にたっていた事もあり、酒宴に酔いつぶれていた。そこに、鍋島信生以下800の軍勢が奇襲、大友勢の死者2000余にも達し、龍造寺軍の圧倒的勝利に終わる。(後の織田信長の桶狭間の戦いに似ている) |
今山の戦い(元亀元年1570)にて大友軍大敗。 戦国の世の常であろうか、龍造寺・大友の両家の間が険悪となる。その頃の有力な武将は、中国の大内・毛利、筑後の大友、薩摩の島津等の動向が複雑に絡みあっていく。 元亀元年(1570)3月、大友宗麟は龍造寺を討つため自ら高良山に陣し、各武将を侵攻させ佐賀を包囲した。大友八郎親貞を攻撃軍の総大将として今山に陣を敷き、佐賀城総攻撃の態勢をとった。 こうした危機を救ったのが鍋島直茂の今山の夜襲で有名である。この戦いで大友八郎親貞は討死し大友軍は大敗し筑後に敗走する。 この時の戦いに西肥前の動向は、有馬仙岩は大友宗麟の意を受けて義純・義直の二子を将として出陣させ、その一黨宇禮志野、後藤、平井も兵を起こし横辺田に布陣する。山口の井元、佐留志の前田は龍造寺軍に加わり出陣して留守である。 今山の合戦は、龍造寺の大勝に終わり、大友勢が筑後に帰ると、鍋島直茂は多久を攻め、また横辺田へと軍を進める。 有馬勢は戦わずして退陣するが、平井は留まって龍造寺を迎え戦う構えであったが、情況不利と見て須古に引上げ合戦には至らなかった。大町町不動寺出羽守も龍造寺に加わる。 |
第3回須古攻め 天正2年(1574)2月、龍造寺隆信は杵島郡に入り年来の宿敵であった須古の平井氏を攻める事にした。まず、佐留志の前田、山口の井本、芦カ里(芦刈)の鴨打・徳島らを従え、納富信景を先鋒にして攻めた。まず、武雄城主・後藤貴明の子惟明と杵島郡横辺田(江北町小田地方)で戦ったが、平井経治は1万余の軍を持って後藤惟明を助けたので、鍋島信昌(信生・直茂)、竜造寺左馬頭らが馳せつけて後藤、平井軍を破った。 同年3月、龍造寺隆信は後藤貴明(武雄城主)と平井経治を攻める為に白仁田山に陣し、千葉勢の一部を加え八千余となり、弟長信、鍋島信昌らを先鋒として志久峠に進んだ。平井経治は機先を制しようと弟直秀、経忠を初め、有馬衆を率いて須古をうって出て龍造寺軍の陣近く押し寄せ一気に討ちかかった。龍造寺軍はややひるんだが、平井軍の日暮れに対する躊躇に乗じ、鍋島信昌(信茂)の献言により数十丈の断崖より押し下り、なだれを打って平井経治の軍に切りかかった。両軍相戦のうちに遂に平井軍を須古本城に追いつめた。龍造寺隆信はその後、横辺田に滞陣したが、いたずらに日を過ごす事となった。 |
第3・4回須古攻め 天正2年(1574)、龍造寺隆信は三度、須古平井を討つべく杵島郡に兵を進め、福母猿通山に本陣を構えた。今の西福寺の墓地のあたりでここを本陣山と隆信が本陣を置いた事による。ここは平地に突き出た小高い台地で南方に須古平井を一望に眺め、東は山口方面、西は武雄を見渡せる所で本陣を構えるには最適な場所である。 この年の戦いで平井は破れ、平戸方面に逃れたといわれている。 |
第4回須古攻め 天正2年(1574)10月、平井経治は再び伯父宗吟入道と一緒に逃れた須古、白石の地下人と、吉田、塩田、有馬方の後援を得て、その数百人で吉田を出発し、高城に入ろうとしてこれを囲んだ。高城にいた弟平井直秀は敗れて横辺田に退こうとしたが、平井経治は馬田橋に火をかけた。そこで直秀は法蔵寺(妻山神社南麓)に立てこもったが経治の軍に囲まれて自害して果てた。 この事は、龍造寺隆信の命を受けて百姓となり、福富にいて偵察していた福富万平(別名、上野讃岐守)によって佐嘉にいち早く注進された。隆信は直ちに天正2年(1574)11月20日、一万余騎の兵を率いて佐嘉をたち福母山に本陣を据えた。隆信の旗本以下は大渡を越えて前進した。 この時、福富万平(上野讃岐守)の一族47人はもとより、白石の郷士大串十兵衛らが馬田神辺口に迎えて案内役として先手に加わったという事は、今回は地元白石の豪族が平井を離反したという事である。 平井氏の本城である須古の高城は丘の上の小城であるが、北の大手は岩石峨々として一騎がようやく通れる小径しかない。西は百町牟田といわれる泥田であり、東は男島(小島)に砦が構えてあり、南は堀が二重に深く掘ってある上に塀を高くして諸所に櫓を築いてある。 平井軍は龍造寺軍が押しよせると城の北の方一間堀口には川津近江守を将として湯川以下の軍勢を差し向けて固めた。東の男島の持ち口は平井刑部少輔、多久宗利以下が固め、南の口は新入道宗吟、西の一方のみは深泥を頼んで兵を備えなかった。 一方、龍造寺軍は城の北一間掘口には先陣を広橋一祐信了、第二陣には鍋島信昌(直茂)ら二千三百余、城の東の白川口には隆信の弟左馬助信周(のちの宗桂さん)と松浦の軍勢を加え二千余騎を配して男島の砦を攻撃させ、城の南の湯崎川津口には納富但馬守信景以下1800余騎を配し、小塚口には納富信理、副島式部少輔、木下四郎兵衛、搦手には弟長信を向わせた。 こうして、11月26日、龍造寺軍は合図を定めて総攻撃を開始したが、一進一退、一間堀口を攻撃した広橋信了は平井軍に追い立てられて退却し鍋島信昌らが入れ替わり交戦した。この時江副兵部左衛門が鉄砲を激しく撃ち軍功をたてた。隆信は妻山に陣し、諸勢は田中、宝蔵寺に陣を布いた。 12月20日、再び総攻撃を開始し、鍋島信昌は地理に詳しい白石の郷、長秀伊勢守を案内役として密かに一間堀口へ押し寄せ、城兵の油断している隙を城中に攻め入り、これと同時に男島の砦がおち平井刑部は討たれ、川津口湯崎口も平井の軍が敗北した。こうして龍造寺の総勢は各構え口をことごとく攻め破って本城へ押し寄せた。 城方では、新入道宗吟が討死したので、城主平井経治も防ぐ事が出来ず腹を切ろうとしたが平井兵庫頭が押し留め、「いかにしてもこの城を逃れ、有馬、後藤を頼まれよ」と諫めたので平井経治は、百町牟田を半桶に乗って山中に逃れたと伝えられる。また兵庫頭は討ち死にして果てたいわれる。 鍋島信昌は、平井経治の姿が見えないので、手の者を安福寺、観音堂を初め付近の民家へ派遣して探させたが見つからないので付近一帯を焼き払った。高城はこうして天正二年(1574)12月20日に落城した。 [平井経治は、「肥陽軍記」によると本丸に入り自害して果てたととの談) |
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{参照:白石市史} | {参照:大町町史} |