正明庵開山塔 宝永八年(1711年)
多久市郷土研究会より写真入手。
令和2年(2020)10月。
多久崩れ: 天文14年(1545年)龍造寺周家は有馬義貞の攻撃を志久村に防ぎ、敗れて多久に帰ったが、山下の柵によった吉野尾村の土豪鶴崎源太左衛尉正明の攻撃を受け、夜に乗じて佐嘉に帰った。 |
水江事略には、「有馬勢兵ラ纏メテ女山二陣ス。舟山日鼓ノ山々軍勢ナラザル處ナク笧火幾百千ト云ヲ知ラズ城中ハ甚ダ微勢二シテ此ノ強敵二当リ難ク終二夜二紛レテ城ヲ出テ竜造寺二帰ル有馬氏多久城ヲ取リ(多久)宗時ヲシテ又爰二居ラシム世二多久崩レヲ唱フ此ノ時ナリトゾ」とある。 ⇒梶峰城の多久宗時は、天文13年(1544)に龍造寺周家に攻められ有馬家を頼って逃げたが、翌年天文14年に有馬義貞の力で城を取り戻し多久の梶峰城に戻る事が出来た。 |
{参照:北方町史} |
(参照:多久市史)
[北肥戦志・隆信西肥前出馬の事/女山一揆〕
■正明庵開山塔
各種資料編 |
西多久
〔多久崩れ/水江事略・北方町史〕
猪熊
山下城
丘城: 鶴崎源太左衛門正明
多久市西多久町大字板屋山下
福母城
丘城: 鶴崎弥藤次
大町町福母城山
長信公 天正二年甲戌 御年三十七歳 正月 隆信公松浦ヲ御征伐ノ為先草野ノ城ヲ攻ラレントテ元旦ヲリ平原表二御発向有我公御先鋒ノ思召ニテ御発馬ノ用意アリ・・・・・城主鎮永力盡テ下城シ筑前二奔ル隆信公御陣ヲ移サレ貴志岳二半年二到ル 城主波多参河守鎮下城 松浦悉ク隆信公ノ御手二属ス実二正月上旬ナリ・・・・・・・・(中畧) 二月 隆信公後藤貴明ヲ御征伐ノ為二軍ヲ率ヒテ多久二来ル我公御先陣ニテ先女山ノ一揆ヲ平ラケラル◇二於テ鶴崎源太左エ門一揆数百人ヲ駆使シ山下ノ柵二楯籠ル 我公軍ヲ卒ヒテ大田二陣セラル 先陣ハ龍造寺下総守船山父子按内者タり進テ山下ノ柵ヲ攻破ル 一揆等烈シク防キ戦トイへトモ是ヲ屑トセス散々二討散シ鶴崎ハ勇気撓マス苦戦ストイへトモ従卒悉ク討死シ自身モ数ヶ所ノ疵ヲ被リ武雄山二逃走ル・・・・・・・・(中畧) 七月 後藤貴明ト御和平アリ同二十五日我公及龍造寺信種貴明ト神文ヲ御取替サル 貴明長子弥次郎晴明(今年十二歳)ヲ人質トシテ佐嘉二遣ハス我公家臣福地蔵人ヲ警固二相附ラレ晴明ヲ鹿子村瑞雲菴二置カル、 今年貴明養子惟明(実ハ松浦鎮信ノ弟)ト不和ノ事起リ家臣ノ惟明二組スルモノ多シ、既二鉾楯二及フ貴明ハ住吉ノ城二居リ惟明ハ本城二據ル 貴明援兵ヲ佐嘉二乞フ惟明モ亦使ヲ遣シテ加勢ヲ求ム、隆信公軍ヲ出シテ貴明ヲ救ハル、父子白水原長谷二戦フ惟明敗走ス 貴明ハ隆信公御加勢ノ恩ヲ感シ晴明ヲ質トシテ和平ヲ乞フ 是ハ信種原直景(猪ノ隈ノ城主)ト相談ノ上和議ヲ取扱ヒシトナリ。 |
{参照:水江事略の抜粋判} |
吉の尾の歴史 「丹邱邑誌」に、「板屋村山下ノ南、梅千山北麓二、有馬ノ属下、鶴崎源太ト云者、柵ヲ構テ住シ、龍家二寇セシュへ、舟山主税等ノ謀ヒ二テ亡タリ、其蹟今畑二ナレリ、調馬場ノ跡ナリ」とある。女山一揆のことで「水江事略」に次のように記してある。「天正元年癸酉(1573)、後藤カ兵志久村二来ル、多久勢伍ヲ列ネ岡ノ原二屯ス、(中略)、ココ二鶴崎源太左衛門正明ト云者アリ、後藤貴明(武雄柄崎城主)ノ属ナリ、有馬(大村領)ノ味方トシテ山下ノ塁ヲ守ル、一旦ハ公(龍造寺長信)二従ヒシカ共、事二因テ叛心ヲ起シ、貴明二内通ス、女山ノ名頭ト称スル者七十五人及ヒ、多久長尾岸川ノ地下人大半鶴崎二一味ス」と、長信が拠する梶尾城を攻めたてた。「此時分、城中微勢ニテ、武備不如意、空敷日ヲ送ル」と、この劣勢を、佐嘉の龍造寺隆信の急使を送ったが、この急使は、鶴崎正明の嫡子新六によって八ツ溝(東の原)で打ち果たされてしまった。正明の子新六は、長信の命を受けた西山(撰分)の谷口兵衛の謀によって打首となった。その後、鶴崎は、「山下二退ク、今ノ六地蔵ヲ立シ處、其戦場ト云」 「女山ノ村長船山主税、鶴崎一族七人ヲ誘ヒ、松原山二登リ七人ヲ討取り、首を龍造寺二送ル」「鶴崎是ヲ聞キテ大二怒り、船山カ人質ノ娘ヲ殺スト云々」 とある。船山主税の娘が人質となり、「殺ス云々」とは、「丹邱邑誌」の鶴懸松の項に「質女ヲ此松二懸テ殺セシユへ名クト云。女ハ鶴ト云シヨシ」とある。正明は、龍造寺勢に敗れ、逃げる途中馬神峠で討たれ 山下に葬られたという。「水江事略」の天正二年の項にも「鶴崎、馬上峠デ龍造寺家人二撃タレ、其屍、山下正明墓ヲ葬ル」とある。 山下集落の奥に、鶴崎源太左衛門正明の墓を供養する正明庵が建てられていたと伝えられ、正明庵溜池もあり、その近くに「正明開山石芳瑞大和尚之塔」が遺されている。正明谷と名付けられた場所もある(佐賀クラッシックゴルフ場管理棟付近)。正明谷付近は昭和初期まで、地蔵森と称していた。吉の尾は、近世の初め頃は、女山村に属し、のち平野村に組み込まれ、多久領における郷村編成により享保年間(1716~1736)以降、板屋村を構成する小村(集落)となった。板屋村の小村「山下村、吉野尾村」と見える。 |
多久の歴史: 鎌倉幕府ができる前の年、建久二年(1191)に多久太郎宗直が摂津(大阪)から下向し、多久の領主となったと伝えられています。多久氏の支配は、天文十三年(1544)、佐賀の龍造寺氏に滅ぼされるまで十四代・約350年間続き、元亀元年(1570)龍造寺隆信の弟、長信が梶峰城に入城し多久を支配しました。天正十二年(1584)島原沖田畷の戦で龍造寺隆信が戦死し、鍋島氏が肥前を治めるようになり、長信の子・安順は姓を龍造寺から多久に改めました。、龍造寺長信の流れを後多久氏と呼び、宗直から宗利に至る多久氏を前多久氏と呼んで区別しています。 |
各地の関係記事 |
下鶴村 (多久市多久町下鶴) |
「水江事略」によると、天正元年鶴崎源太佐衛門尉正明と女山の「七十五人衆」が梶峰城を攻めた時、中多久・長尾・岸川の地の者たちがともに組んだが、下津留(下鶴)の長(おとな)五人は竜造寺長信につき、誠心をもって城へ兵糧を送り続けたとあり、褒賞のために名字帯刀を許された土地であると言い伝えられている。 |
中多久村 (多久市多久町) |
「水江事略」に天正元年(1573)鶴崎源太佐衛門ら女山の名頭「七十五人衆」が梶峰城の竜造寺長信を攻める記事がある。この時、「中多久ノ地ノ人」たちは女山一党に協力するが、「西山ノ村長」谷口進士兵衛が長信の味方をして女山衆の夜討あうと記されている。中多久と称される一帯で西山村(正保絵図あり)が独立しており、これでみても当時の「中多久ノ地」は、幾つかの小村落の上に立った通称らしく思われる。 |
山下の柵跡(山下城) (多久市西多久町板屋字大藪) |
板屋村の山下は現在では吉野尾の区域に包含されているが、小集落として現存し、そこには天正年間(1573-92)の山下の柵にまつわる地名が残っている。 「丹邱邑誌」に、「板屋村山下ノ南梅千山北麓二有馬の属下鶴崎源太ト云者柵ヲ構テ住ミ、竜家(竜造寺)二寇セシュへ、舟山主税等カ謀ヒニテ亡タリ」と記されている。同書は、「鶴懸松 女山東川土井二アル小サキ樹ナレトモ、甚古木ナリ。鶴崎源太ト云者、山下ノ南梅千山ノ北麓柵ヲ構へ、有馬方トナリ、竜家二仇ヲナセシ豪傑ナリ。質女ヲ此松二懸ケテ殺セシ故名付クト、女ハ名ヲ鶴ト云ヒショシ」と記すが、文中の「東川土井」のことを現在は鶴懸井出(堰)とよんでいる。古老によると松は川の拡張工事によって消滅したとのことである。梅干山・梅千谷の地名は残存してる。 「水江事略」にも「天正元年葵酉 後藤カ兵志村村二来ル多久勢伍ヲ列ネ岡ノ原二屯ス。(中略)爰二鶴崎源太佐衛門尉正明ト云者アリ、後藤貴明ノ一属ナリ。有馬ノ味方トシテ山下ノ塁ヲ守ル。一旦ハ公二従ヒシカ共事二因テ叛心ヲ起シ、貴明二内通ス。女山ノ名頭ト称スル者七十五人及ヒ、多久長尾◇川ノ地下人大半鶴崎二一味ス」とあり、また鶴崎源太佐衛門の嫡子新六が竜造寺長信に謀殺される事件が起きて「鶴崎女山ノ一揆及近郷ノ悪党数百人ヲ駆催シ多久二寄来ル。(中略)烈敷戦ヒカ共勝負決セス。(中略)山下二退ク。(中略)其後女山ノ村長船山主税志ヲ公二通シ或日鶴崎二語テ(中略)一属七人ヲ誘ヒ松原山二登り主税父子主従相謀テ七人ヲ討取、首ヲ竜造寺信種二送ル。鶴崎是ヲ聞テ大二怒リ船山カ人質ノ娘ヲ殺スト」と詳細に述べられている。 さらに、「水江事略」天正二年の項に、「竜造寺信種家人撃 鶴崎馬上峠 葬 其屍山下正明墓」とあり、現在山下に正明庵跡、正明谷としてその名を残している。 |
多久市の中世(全般) |
建久四年(1193)鎌倉幕府の御家人多久太郎宗直が武功により下向したと伝え、多久庄の領主であったとされている。 (中略) 文永の役(1274)・弘安の役(1281)に関して、九州武士団の中の「多久太郎宗国」が「九州治乱記」に、多久氏が「肥前旧事」に記されている。相浦家系譜には、弘安四年の戦で、相神浦城主相神浦宗興が勲功あって小城郡能所村を賜ったとあるが、これは納所村であろうと推測される。 南北朝内乱期に入っても多久氏の動きを記す確実な資料はない。系譜等では少弐氏方であったとみられ、「九州治乱記」に暦応二年(1339)武家方の少弐氏に従った鎮西武士団の中に「多久小太郎宗国」の名が数えられる。応安五年の竜造寺熊竜丸軍忠状(竜造寺家文書)では、今川了俊の弟仲秋が大将となって肥前松浦に上陸、集まった肥前武士団と呼子港から唐津・相知(おうち)を経て多久の子侍・女山へ、さらに杵島郡塚崎に転戦した模様を察することが出来るが、「九州治乱記」には、この時馳せ参じた武士の一人に「多久上野守宗国」をあげている。応永三年(1396)渋川満頼が今川氏に代わって鎮西探題となるが、文政四年(1821)の「西肥古蹟咏」および「九州治乱記」は、桐野山・大原(大野原とも書く、現在南多久町長尾)での松浦氏・千葉氏・後藤氏らとの諸侯と渋江満頼の戦闘「桐野の役」を記している。 |
少弐政資が、多久の専称寺で自害するのが、明応元年(1492)で、その子資元は天文五年(1536)、多久城(梶峰城)で病没。資元の子、尚冬は竜造寺周家を頼って多久宗時を討たせ、宗時は島原(現長崎県)の有馬氏のもとへ敗走。その時多久在住の地侍相浦氏・土橋氏らが周家に従った。竜造寺氏が多久に始めて入城したのは、天文13年である。翌天文14年(1545)、多久宗時は有馬氏の兵とともに多久に攻め入り、志久峠で激戦を続け、竜造寺周家らは兵は押されて夜間にまぎれて引き揚げたので、後にこれを「多久崩れ」と称した。(水江事略) |
永禄五年(1562)竜造寺周家の子、隆信・長信兄弟は、小城・丹坂(にさか)を越えて有馬氏・多久氏を討ち、再び多久の城を手中に入れた。城は始め長信が在城するが、のち戦略上の理由をもって蓮池城主小田鎮光と交代した。しかし鎮光が大友氏にくみし反逆したため、元亀元年、三度城を攻略し長信が梶峰(かじみね)城主となった。この時、「山内のおとな十人衆」と称する小侍・土橋・津留・佐古・安童・前田・山犬原・倉富・米満・樋口を苗字とする地の者たちが長信に従ったといわれる。 鶴崎源太佐衛門正明と「女山の名頭」と名乗る75人は、山下の柵にこもって抵抗したが、天正二年(1574)討ち取られ、新城主に対する反抗は終わった(水江事略)。のちにこれを「女山一揆」という。 |
元亀元年(1570)9月、竜造寺隆信から、これまでの佐賀郡に加えて多久を加封された弟の水ヶ江竜造寺四世長信は、多久城(梶峰城)に移り、その子安順の代に多久氏を名乗って以来幕末まで多久を領有した。地元では、便宜上、太郎宗直に始まる多久氏を前多久氏、安順以後の多久氏を後多久氏と称している。 |