鶴崎城主 吉岡氏
吉岡氏の系図
大友能直(大友初代)の孫、野津頼宗を元祖とする大友野津氏庶流。吉岡長増時代に
加判衆に任じられ台頭する。大分郡高田庄鶴崎千歳城主。
吉岡長増(宗歓)
よしおか ながます  ?〜1573(天正元)
左衛門・左衛門大夫・長増・越前守・越前入道・宗歓
吉岡長増は大友義鎮(宗麟)に仕えて、臼杵鑑速・吉弘鑑理と並んで「豊後三老」と称された
 1531年(享禄4)10月から、1534年(天文3)年8月までの2年10ヶ月間、大友義鑑のもとで加判衆を勤め、また国東郡方方も担当。
 1532年2月、大内義隆は淘興房を大将とする大軍を、九州は筑前攻略に派兵。当時、大友氏は小弐氏と同盟していたので両家は協力してこれにあたる事にした。吉岡長増も高田郡衆を率いて出陣したが、大内家の猛攻により、立花城は降伏し、小弐資元は城を捨て落ち延びた。
 1534年(天文3)から1550年(天文19)8月までの間、歴史の記録から消えており、一般的には失脚していたのではないかといわれている。
 1550年(天文19)8月に加判衆に復帰し、大友義鎮(宗麟)初期の大友氏最盛期に臼杵鑑速・吉弘鑑理とともに三老として重職にあり、1572年(元亀3)5月まで加判衆を務めた。
 復帰した、1550年は、二階崩れ変により大友義鑑が斬殺され嫡子の義鎮(後の大友宗麟)に政権交代が行われた年である。吉岡長増はこのタイミングで義鎮の配慮により復帰できた事になる。
 同年、肥後の菊池攻めにも加わっている。
 毛利の九州侵略が露骨になり、1557年(弘治3)から、対毛利戦に参戦、総指揮官的立場で筑前に在陣、大友全軍の指揮者の1人である。
 1568年(永禄11)年の竜造寺攻めでは、毛利氏の救援を待ちねばる隆信に業を煮やした、大友宗麟の意を受け、佐嘉城包囲中の大友前衛部隊と合流。佐嘉城内に内応を促す書状をくくりつけた矢文を何度も城内に射込み、隆信は城内に裏切り者がいるのではないかと疑いを持ち、裏切られる前に降伏した。
  1569年(永禄12)年、大友義鎮は毛利領の攪乱の為、大友氏のもとに身を寄せていた大内義興の甥である大内輝弘に兵を授け、周防に進出させた。輝弘は山口を奪取。これを知った筑前在陣の毛利軍は九州から撤退せざるを得なくなり、これを大友軍が追撃し、大戦果をあげ、大友氏は九州から完全に毛利氏の影響を排除できた。この作戦は吉岡長増の献策によるともいう。

没年は、1573年(天正元)と思われる。
吉岡鑑興
よしおか あきおき  ?〜1578(天正6)
掃部助・鑑興・越中守・越中入道
 1561年(永禄4)、大友義鎮の側近にあり、申次職を務め、1576年(天正4)2月から1578年(天正8)まで大友義統の加判衆。三老達が去った後の加判衆の一人である。
 1569年(永禄12)5月、大友宗麟より筑前立花表での雨中在陣を賞されている。対毛利戦の時には、申次または、それに準ずる地位から宗麟の帷幕に列したとの推測がある。
 1577年(天正5)、日向の土持氏が、島津氏に使者を送った件について、吉岡鑑興は、薩摩に赴いた使者に、親類衆を添えて豊後に参上させ、薩州の立柄を報告するよう要求している。
1578年(天正6)、日向高城合戦にて戦死。
吉岡妙林尼
よしおか みょうりんに ?〜?
父は林左京亮という。夫は吉岡鑑興
1578年(天正6)吉岡鑑興の死後、落飾して妙林尼と称す。1586年(天正14)年12月の豊薩合戦において島津軍は高田庄に侵入。妙林尼は子の吉岡甚吉が不在の為、鶴崎城に篭城し総指揮をとり交戦する。薩摩勢は討ち入る事できず、白滝山(川添地区迫)に陣を敷き長期戦に備えた。孤立した妙林尼は奇策をもって薩摩勢を退却させたという。この時、伊集院美作守・白浜周防守らが妙林尼の術中に陥り討死にした。
吉岡甚吉
よしおか じんきち  ?〜?
甚橘とも書く。のち椎原五郎右衛門とも称す。
 吉岡鑑興の戦死後、家督を継ぐ。1586年(天正14年)島津軍の臼杵侵入の際、大友宗麟に従い臼杵丹生島城に篭城。仁王座口を守って戦功をたてる。千歳鶴崎城は母妙林尼が守り善戦。
 大友氏国除後は浪人、椎原五郎右衛門と改名。嫡子、瀬兵衛は1621年(元和7)細川忠利に仕える。
以後、子孫は代々細川氏に仕え、幕末に至る。
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「鶴崎城主・吉岡氏」
(宗歓)