大分市鶴崎の地域情報
勝海舟と坂本龍馬が鶴崎に。
文久4(1864)年2月16日、勝海舟と坂本龍馬は豊後鶴崎に到着。『海舟日記』には、「十六日 豊後鶴崎の本陣へ宿す。佐賀の関より五里。此地、街市、可なり。市は白滝川に沿う。山川水清し、川口浅し」とある。
日記の上段には、次の和歌が記載されている。
  「大御代はゆたかなりけり旅枕一夜の夢を千代の鶴さき」
鶴崎(町の変遷・鶴崎市→大分市鶴崎)
乙津川
大野川
鶴崎港
鶴崎は戦国末期に見える地名。大分県の別府湾南側大野川河口に位置し、漁港で農産物の集散地であった。
1321年に東巌寺が建立され、ついで57年に竜興寺が建立され次第に発展してきた。
大友氏が鶴崎城を造営し、城下町を形成。天正初期には相当な戸口を擁す。
1601年(慶長6)、加藤領、33年(寛永10)細川領になり、豊後における肥後領、直入・大分・海部三郡六三カ村2万石はの中心地となった。
1954年(昭和29年)3月31日、鶴崎町と明治・高田・松岡・川添の4村が合併し市制施工(鶴崎市)。1963年(昭和38)、大分市に合併。
祭 神:
天照坐大御神(あまてらすおおみかみ)…伊勢神宮内宮(皇大神宮)
豊受大御神(とようけおおみかみ)…伊勢神宮外宮(豊受大神宮)
大地主大神
由 来:
伊勢神宮の遥拝所として明治政府と伊勢神宮により造営されました。周辺の土地より鎮座地は高く、昔は亀丘と呼ばれていました。
鶴崎大神宮
切手(新小判5厘)
豊後・鶴ア名の押印切手
明治30(1897)年使用
(この時代のは、なかなか見受けられません)
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鶴崎城の詳細情報
江戸時代、鶴崎近辺は、河川で分断された川中島をなし三佐(ミサ)は豊後・岡藩、家島は臼杵藩、そして他の鶴崎等が肥後・細川藩の領地となり、各藩主がそれぞれ参勤交代の発着地となっていた。瀬戸内海の玄関口として栄えた。
鶴崎踊
 鶴崎踊りは永禄年間(1558〜69)に始まり、約400年の歴史と伝統を有しています。
 酒色にふけ政治を顧みない大友宗麟を諌めるため忠臣 戸次鑑連(立花道雪)が京都から舞子を呼んで踊らせたのが始まりといいます。 数千人の踊り子が七重、八重の輪をつくって踊る様は、豪華けんらん。国の無形民族文化財の指定を受けています。
「鶴崎踊り」
切手
昔の地図(鶴崎町:昭和44年)  参照:日本図誌体系(朝倉書店)
 
海は埋め立てられ企業進出(九州石油・昭和電工・住友化学等)
鶴崎大神宮の沿革には次のように書かれています。

明治になり明治政府と伊勢神宮は、当時多くの人が希望した「伊勢まいり」をしたいが、交通の便と費用などかかりため、全国31ヶ所に遥拝所を作る事になり、鶴崎の地に「県庁をとるか、神宮をとるか」という事になり、鶴崎の人は、神宮の方を選び、勧請し、この鶴崎大神宮が建立された。
→県庁を選んでいれば、大分県の鶴崎が県庁所在地、もしかして鶴崎県という名前になったかも知れません???
大友家は、現、鶴崎小学校・鶴崎高校の場所に鶴崎城を築かれた。
 城主は、大友氏加判衆として活躍した吉岡宗歓。
 天正14年(1578年)に島津軍が鶴崎城を攻めてきたが留守を守る吉岡妙林尼の活躍は有名。
  関ヶ原の戦い以降、加藤清正は瀬戸内海の拠点玄関口として、鶴崎に所領を希望し鶴崎に御茶屋を置いた。御茶屋には休憩所の他、各種役所を置いた。
鶴崎城
鶴崎茶屋
(鶴崎城跡)
鶴崎城跡
大野川
乙津川
鶴崎町全景図(明治維新前)
熊本藩の鶴崎港 
飛行機や電車がない時代、鶴崎港は、関西・江戸方面へつなぐ瀬戸内海の舟便の重要拠点でした。上絵は鶴崎が熊本藩所領となった時の絵ですが、それ以前より港町として栄えていました。
鶴崎おどり保存会へLINK
素晴らしい踊りの写真が掲載されています。
 
鶴崎踊大会
家島
小中島
三佐
徳島
鶴崎地区の明治36年(1903)の地図
鶴崎
別府湾
大野川
小中島川
鶴崎川
江戸時代の鶴崎地区
乙津川
昔の地図(鶴崎町:明治36)    参照:日本図誌体系(朝倉書店)