海防陣屋跡

所在地:三浦市南下浦町上宮田字大芝原

 弘化四年(1847)徳川幕府が、当時の異国船渡来に怯えて、急ぎ江戸湾(東京湾)防備に着手した当時、三浦半島の警備を命ぜられた彦根藩主井伊掃部頭直弼が赴任にあたり、上宮田に三浦郡、鎌倉郡の軍政の本拠を置いたところを海防陣屋と呼びます。
浦賀・千代ヶ崎・
鶴崎・千駄ヶ崎・箒山・大浦山・剣崎・安房ヶ崎・荒崎・八王子山(腰越)の9箇所砲台を構築しました。
また三崎の城山と原に陣屋の分営を設けて警備に当たりました嘉永6年(1853)の長州藩が交代し、さらに安政5年(1858)には熊本藩に代わり、その後は浦賀奉行所に移管されました。
この10年間にわたって、領地の行政官庁もここにありました。
規模としては・・・・総面積:9,780坪(32,274u)
建物面積:1515.5坪(5001.2u)
警備人数:彦根藩(2198人)、長州藩(約900人)、熊本藩(不明)
 最初に警備に当たった彦根藩の頃は苦しい財政でしたが、長州藩にいたって善政が行われたため、熊本藩と交代の時は三浦・鎌倉両郡の名主・村役人から留任の願書が出されたほどであった。
明治維新で献身・活躍した桂小五郎(後の木戸孝允21歳のとき)や伊藤俊輔(後の伊藤博文16歳の時)はこの陣屋に勤めていたということです。

                               三浦市

横須賀・鶴崎台場
海防陣屋跡(上宮田)
18世紀末頃から異国船の来航に備えて幕府は三浦半島の海岸防備に力を入れ、沿岸各所に陣屋をおき砲台 を設置しました。文化八年(1811)江戸湾防備を命じられた会津藩は、観音崎や城ヶ島の安房崎と共に燈明堂の背後にある平根山に台場を築きました。しかし立地条件の悪さから弘化二年(1845)、鶴崎に台場(鶴崎台場)を築き移しました。その後、更に2年後の寛永元年(1848)5月22日に鶴崎台場は廃止され燈明堂に近い千代ヶ崎へ移されました。千代ヶ崎台場は大砲13門が配備され、江戸防備の役割を果たしていました。鶴崎台場は現在の久里浜少年院内にあり立ち寄る事はできません。   
  嘉永6年(1853)、黒船4隻を率いた米海軍提督ペリーは、大統領の親書を携えて開国を迫り、久里浜に上陸しました。やがてペりーの来航によって日本は開国への道を歩みます。
海防陣屋跡の説明:    鶴崎も記載されています。
平根山
鶴崎台場
久里浜
千代ヶ崎台場
浦賀港
燈明崎
▲ペリー上陸記念碑
海防陣屋跡(上宮田)■
■鋸南町/鶴崎神社
鶴崎台場■
鶴崎台場の場所
▲燈明堂
燈明堂から千代ヶ崎を望む
久里浜ペリー上陸の地から鶴崎台場(現少年院)方面を望む
昔の地図(横須賀久里浜:大正10年) 参照:日本図誌体系(朝倉書店)
参照: 東京湾海堡ファンクラブニュース
ペリー久里浜上陸
ペリー上陸記念碑、碑文は伊藤博文の筆。
幕末にペリーが率いる4隻の黒船が浦賀に来航(ペリー記念館)
寛永6年(1853)、浦賀沖に4隻の黒船が突然姿を見せました。その時、日本は鎖国状態でした。ペリー提督一行は、1853年年7月14日久里浜に上陸しました。
鶴崎
海防屋敷跡記念碑