千葉宗家とその一族
千葉 介 千葉氏の宗家。下総国千葉庄に発生、室町時代末期まで約400年間栄える。第3代当主千葉常胤。第4代千葉胤正。
奥州千葉氏 千葉宗家より分かれる。奥州征伐後下った一族が土着。中世は葛西氏の家臣となった家多し。
小城千葉氏 元寇の警戒の為、肥前国小城に就いたのが始まりで肥前有数の豪族となる。
武蔵千葉氏 室町中期、千葉実胤・自胤兄弟が一族の争いで上杉家を頼り武蔵に逃れたのが始め。
葛西氏 千葉氏と姻戚関係。下総国葛西庄出身で鎌倉中期奥州へ下り豪族化、後に戦国大名。
千葉六党 (千葉常胤の男子)
千葉氏 千葉介常胤の嫡男、太郎胤正、千葉介となり千葉家宗家を継ぐ。      (千葉介胤正:第4代当主
相馬氏 千葉介常胤の次男、師常は下総国相馬郡の郡主となり後に相馬氏となる。    (相馬小次郎師常)
武石氏 千葉介常胤の三男、胤盛は下総国千葉郡武石郷を伝領。              (武石三郎胤盛)
大須賀氏 千葉介常胤の四男、胤信は香取郡大須賀を領す。                   (大須賀四郎胤信)
国分氏 千葉介常胤の五男、胤通は下総国国分郷から後に下総国香取郡矢作城へ。   (国分五郎胤通)
東氏 千葉介常胤の六男、胤頼は下総国香取郡東庄三郷を領す。             (東六郎大夫胤頼)
(中世)葛西氏の領有と千葉氏
平泉藤原氏滅亡後、気仙郡は胆沢・磐井・牡鹿郡などと共に葛西三郎清重の所領となった。鎌倉末期の正和4年(1315)、葛西氏被官本吉郡馬籠城城主千葉忠広の次男広胤が、鶴崎城(矢作町)に来住した。その後、 広胤の三男広次は、小友町蛇が崎館に分出し小友氏を称した。広胤の孫重慶の時、高田町高田館に移り高田氏を称し、重慶の弟胤茂は矢作に残り矢作氏を称した。重慶の次男慶宗は長部館(気仙町)に分出して長部氏を称した。高田氏は基継の代に浜田(米崎町)の米が崎館に移り浜田氏を称した(大船渡市史)。「気仙風土草」では、広継の代に米が崎館に移ったとしている。いずれにしろ、陸前高田市の大部分は、室町期から戦国期にかけて千葉一族の支配地であった。        
戦乱の時代
南北朝期から戦国期にかけて、地内の領主たちが互いに争ったり、隣の本吉郡や東磐井郡や江刺郡の領主たちと争っている様子は、断片的に史料に見られる。その中で、当地の歴史に最も大きな影響を与えたものは、戦国末期の浜田氏の動きである。天正15年(1587)から翌年にかけて浜田城(米崎町)城主・千葉(浜田)安房守広綱が、本吉郡に侵入し、熊谷氏らと争い葛西晴信の討伐を受けた。この戦乱の功のあった矢作修理重常は、浜田氏に代わって気仙郡総旗頭に任じられ気仙郡仕置を委任され、馬上10騎、弓者30人、鉄砲15人を与えられている。同18年には、気仙沼の熊谷直長が馬上30騎、弓鑓の者150人を附与され、気仙郡ほか4郡の仕置を委任されている。
葛西氏の没落
天正18年、浜田氏の反乱などに妨げられ小田原城に参陣しなかった葛西氏は、豊臣秀吉から所領を没収され、気仙郡の領主たちも主家と運命を共にした。「仙台藩古城書上」によると、この時破却された城館は郡内に27ヵ所あり、陸前高田市内では、高田の東館城、浜田の米が崎城、長部の二日市城、小友の蛇が崎城、横田の本宿城と三日市城、矢作の内館城と外館城、広田の広田城の10か城である。
奥州千葉氏一族の鶴崎姓
奥州千葉氏
文治5年(1189)、奥州征伐の恩賞として、千葉常胤は、陸奥国・行方・宇多・亘理・伊具・岩城・宮城・黒川郡内(これらは現在の福島県浜通り、宮城県南部・中部)に地頭職を賜った。1230年〜1300年代に下総より多くの千葉一族が奥州に下向したという。
奥州千葉氏の一族としては、
@千葉頼胤流・・長坂氏を中心として奥州千葉六党を形成(長坂氏・百岡氏・伊刺氏・本吉氏・浜田氏・一関氏)
A千葉胤親流・・千葉胤正の息子・胤親を祖とする(馬籠氏・矢作氏・高田氏・大原氏・星氏)。 鶴崎姓はこの千葉胤親の系図に見える。
B千葉泰胤流・・千葉胤正の次男・泰胤を祖とする?。(薄衣氏・松川氏・問崎氏・峠千葉氏・奥玉千葉氏・鳥畑氏)
 奥州千葉一族で、千葉親胤が祖と伝わる一族に鶴崎姓を名乗った人物がいます。また、現在の岩手県陸前高田市の矢作(ヤハギ)町大島辺に矢作内館、別名「鶴崎城」 というお城がありました。
 どうして、鶴崎姓および鶴崎城という名がついたか判りませんが、千葉氏および奥州千葉氏の情報を集めてみました。
角川日本地名辞典(岩手県)を参照
千葉氏について

千葉氏は、桓武平氏良分流で古代末期から戦国時代末まで関東の豪族として栄えていた。
 平家の全盛の時、伊豆に流されていた源頼朝が、治承4年(1180)に挙兵しましたが、石橋山の合戦で、平家の大群に敗北をし、房総半島(安房国)に逃れるべく海を渡ります。
 旗揚げの前より、源頼朝が頼りにしていたのが、上総広常、下総の千葉常胤(ツネタネ、第3代当主)でした。千葉常胤は、下総内の平家を討ったのち、一族約300名を連れ、下総国府で源頼朝と会い、その後、平家追討軍に加わり壇ノ浦まで転戦しました。千葉常胤は、源頼朝より「師父」と呼ばれるほど深い信任を得ていました。一方、最大勢力を持ち平家討伐に貢献した上総広常は、警戒され謀反の疑いで寿永2年(1183)、頼朝邸内で殺害され、千葉氏が、上総介の一族も配下としています。
文治元年(1185)に、下総守護職に任じられます。
 また、奥州・平泉にいた平家討伐の功労者であった源義経が藤原泰衡に討たれると、源頼朝は文治5年(1189)、奥州征伐に出陣(28万人)します。この戦いで、千葉常胤は、東海道方面の軍を指揮、息子とともに出陣し戦功を立てました。頼朝は、功績のあった常胤に対し恩賞として、日本各地(奥州・美濃・肥前・薩摩など)に地頭職を与え、また千葉氏宗家は、常胤以後、幕府の有力御家人として下総国の守護職を嫡流が世襲した。
 千葉常胤には、7人の男子がおり、うち1名が僧侶となったが、残り6名は、「千葉六党」といわれ各々所領を受け継いだ。
矢作内館城(鶴崎城)について 
矢作(やはぎ): ・・・・島部の内館城(鶴崎城)跡は、葛西家臣千葉玄蕃の、神明前の外館城跡は同じく千葉(矢作)修理の、それぞれの居城跡と伝える(仙台領古城書上)、内館城は、矢作川と街道に対し直角に南に伸びる大規模な山城。東西150m・南北400m、比高40m。北から本丸・二の丸・三の丸の3郭があり、それぞれ郭の間は空濠で区切る。 外館城跡は、下矢作小学校裏の断崖上。東西50m・南北100m、比高70m。頂上の直径80mの平場が本丸跡。その周囲を3〜4段の土壇がめぐる(仙台領古城館)
角川日本地名辞典(岩手県)を参照
矢作内館城(鶴崎城)の外部リンク

第4代当主の千葉胤正(タネマサ)の息子。

*千葉介(ちばのすけ)とは、下総権介を代々世襲した千葉宗家が称していた称号。
千葉胤親を祖とする一族(一部)