宇木鶴崎
柏崎貝塚
末廬国の王墓は、弥生時代中期中葉〜後葉になると。汲田より北西500m宇木川下流の柏崎遺跡へ移ります。総面積は14万u。
宇木鶴崎
唐津市宇木鶴崎
梅白遺跡
弥生時代前〜中期(2300〜2100年前)に立派な水田遺構がある。
中原遺跡
王墓。甕棺墓から、鉄器等が出ています。
宇木・鶴崎遺跡
宇木
唐津市宇木に鶴崎という地名が残っています。
この鶴崎より、下記の有柄銅剣(ゆうへいどうけん)が、発見されており、佐賀県の重要文化財に指定されております。
宇木汲田遺跡
弥生前期末から中期初頭に宇木汲田もムラに大陸系(朝鮮系)の青銅器を副葬する初期の王墓が出現。末廬国における王権(首長権)の芽生えと考えられる。宇木汲田遺跡の広さは約4万u。
菜畑遺跡
日本最古の水田の遺跡。竪穴住居
や水田の遺構が畦(あぜ)、水路、矢板列が見つかっています。
唐津市宇木鶴崎出土有柄銅剣
(からつしうきつるさきしゅつどゆうへいどうけん)

県指定重要文化財/昭和56年3月16日指定
佐賀市城内一丁目15-23(県立博物館)
考古資料

 
宇木川右岸に、南部の低山地から突出する台地上に立地する遺跡で、周辺には弥生時代から古墳時代の宇木汲田遺跡・宇木柏崎などが所在する唐津平野の代表的な遺跡である。有柄銅剣は、この遺跡の甕棺墓なその墳墓から副葬品として出土したものと考えられる。
 切先部分を欠失しており、現存長19.1センチメートル、柄の部分の長さが8.3センチメートルある。剣身は刃こぼれがあるが、良く研ぎ出されている。
 この有柄銅剣は、吉野ヶ里の有柄銅剣を含め、弥生時代の国内出土の銅剣とは全く形態が異なっており、国における戦国式銅剣に系統を求められる国内唯一の資料である.
                     (佐賀県立博物館)
唐津市ホームページ
「苗字の始まり」
日本の苗字は3〜4千年前の縄文後期に「同じ名前の人を識別」するために誕生したと考えられます。
当然その時代には文字はなく、人々の間の話し言葉の上だけです。

地名から苗字をつけるというよりも、「その地域を代表するような人」がいてその人の名前を地名に付けられるケースが多いようです。もしかして鶴崎さんの最初のルーツかも知れませんね。多久は唐津からして山一つ越えればすぐ、また杵島郡大町町も。また久留米地区も近いと思います。
「魏志倭人伝にみる末廬国」

更に大海を渡ること千里あまりで末廬国に到達する。四千余戸あり、山際や海岸に沿って家が建っている。草木が生い茂っていて、歩く時、前の人が見えない位である。人はうまく魚介類を捕え、海の浅い所、深い所関係なしに潜水してこれを捕える。
東南へ陸をいくと事、五百里で伊都国に到る。

 [餘里至末廬国有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕海鰒水無深浅皆沈沒取之東南陸行五百里至伊都國官日爾支副日泄謨觚柄渠觚千餘] 
宇木鶴崎の位置
唐津平野(末廬国)の遺跡群
千々賀遺跡
末廬国の拠点集落ではないかと注目をされている遺跡。
桜馬場遺跡
末廬国の王墓。3代にわたる弥生後期の王墓が形成される。
久里双水古墳
古墳時代初期、3世紀末〜4世紀始めに久里双水において全長110mの日本最古の大前方後円墳が形成され、同時期の最大級の古墳。
「唐津市・鶴崎」
魏志倭人伝 (邪馬台国時代)
「末廬国」(まつろこく、まつらこく)
魏志倭人伝に現われる末廬国は、佐賀県・唐津を含む松浦半島東側一帯にあった国だと考えられる。
 「一支国(壱岐)より更に大海を渡り、千里あまり、四千戸からなり漁業がさかんだと記載されている。」
宇木
有喜とも書く。松浦川の支流、宇木川の最奥に位置し東を飯盛山、西を夕日山に挟めれた谷間に立地。飯盛山が北方へのびた迫頭(さこかしら)の丘陵地とその先の鶴崎舌状台地にそれぞれ迫頭とツカサマ古墳群があり、周辺の低湿地に鶴崎・森の下、迫頭の弥生遺跡がある。夕日山の東山麓一帯は弥生時代は松浦潟をのぞむ低湿地で汲田(くんでん)には、弥生前期・中期後半の甕棺群遺跡、貝塚などがある(国重文)。また、その丘陵地には森田・瀬戸口支石墳群がある。
(角川日本地名大辞典より)
▲飯盛山
宇木汲田遺跡
宇木汲田
宇木鶴崎遺跡の標識 
鶴崎遺跡周辺 
鶴崎遺跡は、縄文時代晩期から古墳時代の複合遺跡であり、貝塚や甕棺(カメカン)墓、住居跡、古墳などの遺構も数多い。鶴崎遺跡から出土した銅剣は中国・戦国時代の桃氏剣に形状が類似する。