源頼朝上陸地
千葉県鋸南町竜島165−1

 治承四年(1180)八月、伊豆で挙兵した源頼朝は、二十三日、平家方の大庭景親(おおばかげちか)勢との石橋山の戦いに敗れ、真鶴より海路小舟で脱出し、安房国に向かいました。「吾妻鏡」によれば、「二十九日、武衛(頼朝)、(土肥)実平を相具し、扁舟に棹さし安房国平北郡猟島に着かし給う。北条殿以下人々これを拝迎す」とあり、上陸地点の猟島が現在の鋸南町竜島とされています。頼朝はここで先着の北条時政、三浦義澄(よしずみ)らと合流し、再起を図りました。当時、房総には、下総の千葉常胤(つねたね)、上総の上総広常、安房の安西景益(かげまさ)、丸信俊(まるのぶとし)ら源氏恩顧の豪族が多く、また内房沿岸は対岸三浦半島の三浦氏の勢力範囲でもあり、頼朝が房総での再起を選んだ理由と考えられます。
 房総一の兵力を持っていた上総広常のもとへ向かうべく、外房の長狭(鴨川市)へ進んだ頼朝一行は、九月三日、平家に味方する地元の豪族長狭常伴(ながさつねとも)を襲撃。ひとまず安西景益の館(南房総市池ノ内)へ入り、各地の豪族への使者や書状を送り、味方を募り、情勢を見極めます。その間、洲崎神社(館山市)、丸御厨(南房総市丸山)などへ足を運び、十三日、安房を進発して兵力を加えつつ房総を北上、鎌倉へと入りました。東国の豪族たちを糾合し、平家を滅し、鎌倉幕府という武家政権を樹立した源頼朝の再起の一歩はここから始まったのです。
                  鋸南町教育委員会
鋸南町指定文化財  「大絵馬 源義経弓流し図」

寛政10年(1798)の奉納で、「大野英令」の落款がある。大野は日本寺の羅漢像を刻んだ石工で、安永8年(1779)から寛政10年までの21年間、鋸山で羅漢像を彫った人物。その最晩年に地元神社にこの絵馬を奉納したものと思われる。
大絵馬は、平安後期、元治元年(1185)の源平屋島の戦いで、海中に乗り入れた馬上の義経が、敵船から繰り出す熊手を払いのけるうちに、その弓をかけ落とされ、うつぶして鞭で弓をかき寄せている場面。
            (参照:房日新聞の記事)
千葉県鋸南町・鶴ア神社
源頼朝上陸の地
鋸南町の鶴ア神社から南に位置する竜島というところに、源頼朝上陸地の記念碑があります。
拝殿内部。天井に大絵馬
「源義経弓流し図」
神社に人影もなく、拝殿の入口の硝子戸のうちに5cm四方の1枚の硝子が外してありそこからデジカメを入れて撮影に成功しました。神社の良き配慮でした。感謝感謝!!
千葉県内房総の鋸南町(キョナン)の鶴ヶ崎の根元に鶴ア神社があります。
鋸山の山頂から南側を望むと、円弧を描いた元名海岸の南に突き出た岬、鶴ヶ崎があり、その先に亀ヶ崎があり、鶴亀一体となります。
 鶴ア神社は郷社の資格をもつ由緒ある社で、元和6年(1620)の検地帳に、名主屋敷として「八幡崎八幡やしき」と載るといわれ、この頃の創建とされています。祭神は八幡神。地元では、鶴ヶ崎神社、鶴ヶ崎八幡神社などと呼ばれていましたが、金剛宮司が名称を鶴崎神社として正式に登録しました。
 鶴崎神社には、拝殿の天井に町指定の文化財である「源義経弓流し図」という大絵巻があります。 
          (参照:房日新聞の記事)
左より「伊勢皇大宮」「若宮八幡宮」「八幡宮」 
鶴ヶ崎
亀ヶ崎
鶴ア神社
鋸山山頂から鶴ア神社方面を望む
JR保田駅
鶴ア神社の鳥居と参道 
  平成25年(2013)7月23日訪問。
  神社名、崎はアで彫られていました。 
「吾妻鏡」に鶴崎と書かれています。
治承四年(1180)八月二八日条に「武衛自 土肥真名鶴崎 乗 船、赴 安房国方 給」とあり、石橋山合戦敗退後の源頼朝が真鶴より乗船し安房へ逃れたとの 記載有。.
(武衛は土肥真名鶴崎より乗船し、安房の 国の方に赴き給う。)
真鶴は、当時、真名鶴崎といったようです。
源頼朝上陸地
大絵馬   「源義経弓流し図」
 絵馬は、黒ずんでおり源義経が馬に跨り、刀を持っているのは何となくわかりますが、・・・・。これを模した絵ども書いてくれると良いですね。
拝殿 
拝殿 
源頼朝上陸の地、記念碑